Monday, March 03, 2014
領土論争は内にこもるしかないのか
斎藤道彦『日本人のための尖閣諸島史』(双葉新書)
「『日本が盗んだ』なんてもう言わせない! 尖閣=日本領であることのゆるぎない証拠! 尖閣問題の決定版」ということで、成田空港の書店でまとめ買いした1冊だ。
歴史研究者で、近現代中国の文化・思想を専攻する著者は、尖閣論争について、論点を整理したうえで、中国側の見解を総点検する。まず、日本の領有以前について、歴史的文献から中国領説が成り立たないことを論じる。次に、日本領有化以降について、日本領有の経緯を確認して、これに対する中国側の論理が成り立たないことを説明する。歴史文献で物事が決まるのではなく、近代国際法の立場で判断する必要があり、その意味で1895年前後の動きを一つ一つ確認して、日本領有以前に中国領といえるような条件がなかったこと、日本領有は一応の手続きを踏んだこと、その後の中国側の主張は一貫した領土主張ではなかったことなどを提示して、日本領との結論を唱えている。1895年当時の国際法から言って、日本以外に尖閣を領有する姿勢を示した国家はないから、日本領というのは正当な見解だろう。中国領説としては井上清(京都大学名誉教授)の著作がり、今でも影響力を持っているが、すでに過去の見解であって、いまでは到底採用できないのも、著者が言うとおりだ。もっとも、著者は、井上清について「大ボラを吹いている」「「病膏肓の間違い」「駄々っ子のように脇目もふらずに」・・・とえんえんと攻撃しているのは、いただけない。
私は、尖閣諸島は日本領と考えるのが合理的と考えるので、著者の見解に賛成ではあるが、元をたどれば、尖閣は琉球人民のものであり、琉球植民地化の帰結である。琉球が日本に入っているため尖閣は日本領だが、その前提に疑問がある。つまり、琉球独立論の立場から言えば、そして琉球人民の先住民族の権利から言えば、また別の話になる。
問題は、領土論争という、相手のある話を、相手を無視して内輪にしか通用しない論理で強引に事を運ぶ姿勢である。1895年領有が、諸外国に秘密の内に、日本がこっそり閣議決定しただけという事実が判明しても、「領有の通告は必ずしも必要とはされていなかった」から、それでよいのだと言うのは、西欧近代の帝国主義の論理でしかない。「僕たち、誰にも知らせず、こっそり僕たちのものだって決めたんだから、決めたんだ」という泥棒の理屈を21世紀の今、振り回すのはどうかしている。だから「盗んだ」と言われてしまうのだ。領土論争には相手がいる。当時で言えば、清朝も相手だが、琉球人民も相手だ。本書の著者は、他の著者よりは、中国を見ている。中国研究者だ。でも、使う論理は非常に内輪の論理だし、タイトルも「日本人のための尖閣諸島史」だ。仕方ないのか。なお、本書とは別に、研究書も準備していると言うので、そちらにはもっと整理された議論が展開されているのかもしれない。