Thursday, December 08, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(218)レイシズムを考える08

安部彰「リベラリズムにおけるヘイトスピーチへの対抗策」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

安部は、ヘイトスピーチへの「対抗」には、「カウンター」と法規制の2つの動向があるという。後者は表現の自由をめぐる論争を呼び起こしたが、ヘイトスピーチ解消法という非刑罰的手法で「一応の決着」をみたという。そのうえで安倍は「むしろ規範的な問題、なかでもとくに道徳的な問題」に取り組む。具体的には「リベラリズムからはヘイトスピーチへのいかなる対抗策が導かれるのか」である。

安部はまずJ.S.ミルの『自由論』における表現の自由の全面的な擁護と、その制約原理としての「危害原理」を考察し、ミルのリベラリズムによるなら、「ヘイトスピーチへの法規制は正当化されるであろう」という。問題は危害があるのか、不快に過ぎないのかである。在日朝鮮人にとってはまさき危害行為であるが、日本人にとっては不快に過ぎないとして、「それは、日本人がヘイトスピーチ問題の部外者であるということを露も意味しない」。ミルにおいては「批判と説得」が重視されることになる。

安部は次にアメリカの哲学者R.ローティのリベラリズムを論じる。見るの議論を高く評価するローティは、「自己創造」の自由の価値を最大限評価する。「人権文化」に着目するローティは、「差別主義者らの共感能力を高めるという方向で構想される」という。つまり「感情教育をつうじて、(異質な)他者の苦しみへの感受性と、他者とのオルタナティブな関係を想像―創造する能力とを養うといった道筋のもとで構想される」という。

感情教育という提案に対しては「なにを悠長なことを」という批判が予想されるが、安部は「人格の形成にかかわる教育という営みは性急であるべきではない」と言う。想像的共感や人権文化の実践・推進が重要である。

ヘイト・スピーチへの対策として、私は刑事規制、民事規制、行政規制、啓蒙・啓発、教育、対抗言論のすべてが必要であると唱えてきた。それが国際常識だからだ。人種差別撤廃条約を見ても、委員会の一般的勧告を見ても、ラバト行動計画を見ても、国連ヘイト・スピーチ戦略を見ても、すべての手段・方法を総動員して差別とヘイトに対抗する必要性が強調されてきた。これが最低限の常識である。安部は法規制、批判と説得、教育の重要性を指摘する。合理的で正当な議論である。

教育については、私は、どのような教育であるのかを示すべきだと指摘してきた。初等教育なのか中等教育なのか高等教育なのか社会教育なのか。いかなる教育課程と教材なのか。教師はいかに訓練されるべきなのか。教育によって、いつまでに差別とヘイトを克服することを目指すのか。人種差別撤廃条約第2条と第6条の要請である。教育論者はこうした点を明らかにするべきである。そうでなければ無意味な主張に過ぎないだろう。安部の議論には具体性がないのが残念である。

私はないものねだりをしているのではない。反差別の法と政策を制定し、反差別と反ヘイトの教育を行うことは国際人権法の要請であり、国際常識となっている。西欧諸国では反差別法、人権法が制定され、反差別の教育が実践されている。教育論者ならば、そうした実践に学んで具体的な議論を展開するべきであろう。安部の今後の研究に期待したい。