Sunday, January 15, 2023

差別研究はどこまで来たか01

山本崇記『差別研究の現代的展開』(日本評論社、2022年)

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/8897.html

<目次>

はじめに 本書の見取り図――問題意識と構成

序 章 差別をめぐる論点

第1部    理論的検討――メカニズム・社会運動・政策

第1章    差別概念の検討――差異のディレンマに向き合う

第2章    差別をめぐるディスコース史

第3章    複合差別に抗う別様な共同性――社会運動の再定位を通じて

第4章    差別者と被差別者の関係性と対話史

第5章    差別論の比較社会学――各領域の特徴と課題

第6章    コロナ禍における差別論――社会学的アプローチの更新の契機として

第2部    実践的検討――規制・予防・被害回復

第7章 差別の規制と法制度の対応

     ――現代における部落差別事象を事例に

第8章 差別解消とソーシャルワーク

     ――隣保館の相談・啓発と支援・予防機能

第9章 差別被害と回復の方途

     ――京都朝鮮第一初級学校襲撃事件を中心に

終 章 反差別と共同性

     ――〈総括〉と再帰的コミュニケーションを通じて

山本は静岡大学准教授で、地域社会における社会的差別・排除の在り様に関するエスノグラフィ、差別・社会的排除に抗するインクルージブな地域社会・福祉・教育の在り様に関する研究をしている。

目次を見れば明らかなように、山本は第1部の理論的検討と第2部の実践的検討の2つの柱建ての下、「差別論/研究の更新」を掲げる。従来の差別論が、個別の実践報告か、抽象度の高い理論研究に偏っていたのに対して、「それらをトータルに捉える際に、社会学という学問領域を軸にしつつも、隣接領域の成果も吸収することに努めた」という。

2016年の障害差別解消法、ヘイトスピーチ解消法、部落差別解消推進法という3つの法律により、法学領域の研究が大いに進展しているが、「社会学はこの点に十分コミットできていない。特に、司法判断(判決)や法律では零れ落ちる差別被害の実態や回復の在り方については積極的な介入があってよい」として、社会学の差別論を「包括的な視点から更新してみたい」という意欲的な試みである。

山本は「序章 差別をめぐる論点」で、主に部落差別を中心にして近年の差別事象を素材に、差別論の論点を確認する。「現代差別の地平――インターネット時代のヘイトスピーチとアウティング」「差別の日常性と処方箋」「差別の実体と関係――部落差別の定義から見る」「カテゴリーの歴史性と可塑性」、「複合差別論の位置」、「属地・属人の位置」、「コミュニティという方法――別様な共同性へ」といった論点を登記し、本書全体を通じて、これらを論じることが予告される。

「第1章 差別概念の検討――差異のディレンマに向き合う」で、山本は「差別の社会理論の課題」を考察する。先行研究を評価しつつも、「社会学的差別論は、(1)差別のメカニズムを含む構造的視点を欠落させていること、(2)差別の是正・解体を求める社会運動の視点を欠落させていること、そして、(3)差別を是正し再生産もする、政策・制度に関する議論を欠落させていることである」という。山本はかつて、1980年代までの研究には以上の視点が見られたが、それが失われていったと見て、この欠落を改めて埋めていくことを課題とする。

まず差別概念の定義が俎上に載せられる。社会学辞典などの定義を検討し、その基礎にアルベール・メンミの定義があることを確認する。個人・集団の差異化、そして「異質性嫌悪」、さらには「他者の拒否」による「差別主義」である。だが、社会学の差別論はメンミの定義を十分に踏まえて展開することなく、権力論や関係論に向かっていったという。

山本は差別の社会理論を構築するために、アイリス・ヤングの「差異の政治」論に向かう。

ヤングは差別概念を論じるために、だがその前に「抑圧」概念の検討に力を入れた。搾取、周縁化、無力化、文化帝国主義、暴力という5つの局面で抑圧を論じる。その背景には「新しい社会運動」があった。運動論としても抑圧に対抗する戦略の構築が課題となる。

メンミとヤングを踏まえて、山本は「差別の包括的な議論に向けて」議論を始める。「差異の政治」の差異化、アンダークラスの分析を経て、主体―近代的個人(普遍主義)―集合的アイデンティティ(文化的差異)という「差異の三角形」を提示する。

そのうえで、山本は「差別論の構造的把握――メカニズム、社会運動、政策/制度」を掲げる。これが本書の基本課題となる。

社会学における差別研究の先行理論状況を把握していない法学研究者にとって、山本の社会学研究をどう見るかは慎重さが求められるが、かつての社会学における差別研究がその理論的な力を喪失し、いま再び差別研究に向き直しているという状況把握は、なるほどと思う。

近年の社会学研究における差別論は多様であり、豊かに見える。だが、同時に差別の歴史や現在の実態を踏まえない研究が目立つことも否めない。ヘイト・スピーチの議論を見ると、差別と差別論の歴史を学ばずに思い付きだけで論じる傾向が多々みられることは、このブログでも私の著書でも、繰り返し指摘してきた。

1章でメンミとヤングに学んだ山本は「第2章 差別をめぐるディスコース史」において、さらに日本の社会学における差別論を点検する。「社会運動を論じなくなった差別論の系譜」という挑発的ともいえる表題で、山本は「現代差別論が辿り着いた先」を論じる。

「『1968年』論による絶対化」では、学生運動史における「1968年」論が差別研究の桎梏になってしまったことを振り返る。197080年代には差別論研究は社会運動研究であった。しかし、その後、理論的に発展した社会学は社会運動から「離陸」し、切り離されていく。「差別論の社会学化」が「社会運動からの離陸」になってしまい、「並列化」「個別化」をもたらしたという。

先行研究を踏まえて、山本は現代差別論の課題を模索するが、重要な契機として登記されるのが、「ヘイトスピーチと反ヘイトのカウンターの登場」である。社会運動としてのカウンターの位置づけは、社会学のみならず、重要な課題となるだろう。レイシズムや反レイシズムの運動と研究を射程に入れた差別論を正面から再構築することが課題となる。

ヤング理論は重要なので、私の『序説』166168頁では、ヤング理論をヘイト・クライム論に応用したバーバラ・ペリー論文を紹介した。