Tuesday, January 10, 2023

ヘイト・スピーチ研究文献(222)侮辱罪の解釈と立法

清水晴生「ヘイトスピーチと侮辱罪」『白法学』272号(2020年)

清水は白鴎大学教授で、刑事法研究者である。11頁の短い論文である。

<目次>

1 川崎市差別のない人権尊重のまちづくりとヘイトスピーチ解消法

2 ヘイトスピーチと侮辱罪の成否

3 ヘイトスピーチと侮辱罪の保護法益

1 川崎市差別のない人権尊重のまちづくりとヘイトスピーチ解消法

清水はヘイトスピーチ解消法第2条の定義規定を引用し、「この扇動を原型、危害告知と侮蔑とを派生型ということもできる。後二者『など』が煽動だと規定されているのである」という(92頁)。「ここにすでにヘイトスピーチの他にはない特徴が表れている」。というのも、「それは抽象的なものに向けられていながら同時に個人にも向けられ、あるいは個人を攻撃することを通じてその全体をも攻撃しようとするものである。このような両面性がある。」(92頁)

ヘイト・スピーチの個人的法益と社会的法益の双方に関連する二面性を指摘している。

 このように二面性を確認するが、清水自身は「まずもって個人的法益が侵害されたか否か」であるとして、個人的法益に限定して、侮辱罪との対比を行う。罪刑法定主義や明確性の原則に照らして、個人的法益としての構成が重要だからである。

 そこで清水は川崎市条例第12条を引用し、「ここでは解消法とは異なり、まず原型の煽動を規定し、その後に派生型だったはずの脅迫と侮辱とが並ぶ。しかし、このような列挙の仕方には十分な意味があるように思われる」(94頁)として、その意味を分析する。

2 ヘイトスピーチと侮辱罪の成否

 清水は、ヘイトスピーチと名誉棄損罪・侮辱罪を対比して、大審院対象5324日判決を読み直す。

 「事案の具体的な処理としても、脅迫の被害者がある寺に対する侮辱をしたことに対して、そこで演説会を開こうとしていた団体の構成員がこれに対抗しただけで脅迫に該らないとはいえないと判示したのであって、いわば単に当該侮辱は、脅迫の加害者個人に対してなされたものではないとしたに過ぎない。つまり名誉棄損や侮辱というのは常に特定された相手に対して行われるものであり、今回の侮辱が向けられた特定の相手は、その団体の構成員たる加害者ではなかったといっているに過ぎないのである。」(97)

 それゆえ、ある家族に対する名誉棄損は個人に対する者に準じることになる。「あの店の奴らは」「あの学校の先生たち」も特定可能である。

 「この種の表現についてはその言辞のみならず、例えば掲げられている画像・映像、どのような場所で行われているかといったことも加味して評価することができる。名指ししなくても、ある団体の建物の目の前で行っていれば、その団体に対する侮辱であることが当然に理解されるという場合が少なくない。」(98頁)

 「一見属性にのみ向けられたような言辞・表現であっても、空間的限定を伴うことにより、それは特定の集団に帰属する個々人に向けられたものとなりうるのである。そして当然いわゆる概括的故意を認めることができる。あとはそのような特定性を支える具体的事実が客観的な証拠によって認定されることを要するというだけであって、刑法231条の侮辱罪にいう『人』を『侮辱した』という構成要件要素の充足に不足するところはないのである。当該言辞・表現が特定範囲の人々・個々人の社会的名誉・社会的評価を低減させるに足りるものと認められれば、名誉毀損罪あるいは侮辱罪の成立を認めることができる。」(99頁)

 このように清水は、現行刑法の侮辱罪が個人侮辱のみならず、集団侮辱をもカバーしていると解釈することで、一定のヘイト・スピーチの可罰性を基礎づける。

3 ヘイトスピーチと侮辱罪の保護法益

 清水は保護法益論の冒頭で重要な指摘をする。

 「ヘイトスピーチはいわば言葉による暴力である。連日聞かされた言辞により精神的障害を負った場合、これを傷害罪に問う余地はある。」(99頁)

 私と同じ主張である。清水はさらに次のように述べる。

 「そのような身体的傷害に匹敵する精神的傷害以前に、その結果の発生に至る前の時点で言葉による暴行でもあるわけだが、言葉による暴行を認めるのは言葉による傷害を認めることよりは困難といえる。これはむしろ脅迫であったり、名誉棄損や侮辱の対象とされる行為と解される。物理力と言論表現とで分けて規定しているものと理解されるからである。」(99頁)

 清水は、ヘイト・スピーチは脅迫罪にあたる場合もあれば、侮辱罪にあたる場合もあるという。侮辱罪にあたる場合について、清水は次のような解釈を施す。

 「これをヘイトスピーチに即してやや詳しく述べるならば、本来多様性の範疇内にあって非難に相当しない属性や事実に対する極端に一方的な評価が公然と喧伝されることで、自己が現に生活する社会の一部に明白に自己や自己の属性、自己の属するコミュニティに対する嫌悪、敵愾心を抱き尚且つ表明する人々が一定数ないし相当数存在していることが示され、そのことにより当該評価が伝播することであるいは更に同調されることで社会的評価の低減を招くおそれ・抽象的危険が生じる。そしてそのおそれの発生により名誉毀損罪や侮辱罪の成立にとっては十分であるところ、それだけではなく延いては名宛人らの精神的平穏及び平等な市民としての自尊心に対する侵害をも結果として惹起するのである。」(100頁)

 「このことをやや図式的にいい換えてみれば次のようにも捉えることができる。即ち、誰しもが自己措定、つまり『自分は何者であるか』という生き方や人生の意味についての問いに対する答えとして自己同一性の画定をしながら生きていく中で、『自分はあれではない』、『自分は○○ではない』という分断を前提とした相対的な自己措定を行うとき、そこでは下層者の措定がなされる。これが公然となされるに至ったとき、措定される側は単に社会的評価に対する侵害を被るというだけではなく、社会の中で保持され自己措定のよすがとしてきた信頼が他者による措定によって破壊されることで、社会内での自己実現をも阻害されることになるのである。即ちこの侵害行為は単に外部的な社会的評価を害するのみならず、外部とも結びついて積み重ねられ形成されてきた人格権をも侵害するのである。つまり、他者からの自己への信頼のみならず、自己自身による自己自身への信頼までが破壊・侵害されるということになる。」(100101頁)

 「この意味では、他者からの自己への信頼・評価・評判が害されるおそれのみで名誉棄損や侮辱が成立することには十分であるところ、外部的事実や素行に対する指摘にとどまらず、特に憲法14条が平等と差別の名の下に掲げるところの『人種、信条、性別、社会的身分』といった重大な人格権侵害を引き起こしうる属性に関連づけて名宛人とした特定集団に属する個々人への名誉棄損・侮辱行為については、それらの罪の加重類型を新たに規定することも理由がないとはいえないことになる。」(101)

 ここでは「加重類型を新たに規定すること」に言及しており、一定のヘイト・スピーチについての立法論となっている。

 以上のとおり、清水は、第1に、一定のヘイト・スピーチについて現行刑法で可罰的であるという解釈論を提示しつつ、第2に、一定のヘイト・スピーチについては加重類型を新たに設ける立法論を唱えている。

 清水の「原型」と「派生型」の理解は独特である。なるほどとも思うが、法務省が提示した3要件を見ていないのかもしれない。実際には次のような関係である。

    ヘイト・スピーチ解消法2条の定義→②法務省の3要件→③川崎市条例12

清水はを抜きに、①と③を対比しているため、そこに独自の解釈を介入させているのだろう。

 清水は、ヘイト・スピーチの「二面性」を指摘しながらも、個人的法益に限定して議論する。また、現行刑法を基準に考えるため、まずは侮辱罪の解釈を展開し、そこでは把握できない部分について加重類型の立法論を展開する。これ自体は合理的な発想だ。

 ただ、清水の議論では、ヘイト・スピーチの本体部分を捉えることは難しい。保護法益だけではない。実行行為を正しく把握できないのではないか。

  ヘイト・スピーチは「ABを侮辱した」という単純な行為では把握しきれない。国連事務総長が公表した「ヘイト・スピーチ国連戦略」が明示しているように、「ABを侮辱すると同時に、Aが公衆に向かって『○○人を差別しよう』と煽動する」のである。後段の差別の助長、煽動はヘイト・スピーチ解消法にも明示されているし、清水自身も「原型」と認識している。

  清水は個人的法益重視の立場から、「原型」の議論を割愛して、「派生型」の議論に集中する。現行法を出発点として解釈を試みる努力は大いに理由があるとはいえ、この方法でヘイト・スピーチの基本性格や実行行為を把握することができるだろうか。