Sunday, July 13, 2014

差別団体に公共施設を利用させてよいか(5)

五 ヘイト団体の認定は可能か                                                       
*                                     
 奈須祐治は「従来の判例で考えると、自治体が排外主義団体に特定して施設を貸さないというのは難しいのではないか」と述べている。ここでは特定団体への拒否が許されないということと同時に、ヘイト団体の特定、認定が困難であることも含意されているようである。確かに、差別禁止法やヘイト・スピーチ法のない日本で、ある団体を差別団体、ヘイト団体と認定することに一定の困難を伴うことは否定できない。                                               
 山形県生涯学習センター条例には「知事は、センターの使用の目的、方法等が次の各号のいずれかに該当するときは、許可をしてはならない。(1)公益を害するおそれがあるとき。(2)センターの管理上適当でないと認めるとき。(3)その他センターの設置の目的に反すると認めるとき」という定めがあるだけで、判断が難しいのも確かである。センター設置目的は「県民の生涯にわたる学習活動を総合的に支援し、地域の活性化を担う人材の育成及び県民の文化の振興を図るため」(第一条)とされているが、差別について直接の判断基準が示されているとは言えない。                                                 
 他方、門真市人権尊重のまちづくり条例は「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等であり、個人として尊重され、基本的人権の享有が保障されなければならない。これは、人類普遍の原理であり、世界人権宣言及び日本国憲法の理念とするところであり、かつ、私たちがともに守り、伸張させていかなければならないものである」、「一方、今日でもなお、人種、民族、信条、性別、社会的身分又は障害があることなどにより人権が侵害されている現実があり、また社会情勢の変化等により、人権に関する新たな課題も生じてきている。二一世紀を真に平和で豊かな『人権の世紀』とするためにも、私たち一人ひとりが人間の尊厳を尊重し、すべての人の人権が保障されるまちづくりを実現することが、今まさに求められている」としたうえで、「市は、前条の目的を達成するため、市民の自主性を尊重し、人権意識の高揚を図るための施策及び人権擁護に資する施策を積極的に推進するものとする」(第二条)、「市民は、互いに人権を尊重し、自ら人権意識の向上に努めるとともに、市が実施する人権に関する施策に協力するよう努めるものとする」(第三条)と、人権への姿勢を明快に示している。差別団体やヘイト団体の定義はないが、条例に違反する事態を判断することが十分可能な条例である。                               
とはいえ、日本国憲法第一三条や第一四条に、人格権を侵害する団体や平等を損なう団体を判定する基準が明示されているわけではない。憲法以外の法律にも、ヘイト団体を認定するための定義や基準が示されていない。                                                          
だからと言って、ヘイト団体の認定ができないわけではない。差別団体やヘイト団体の「外延」が明確に線引きされていない場合であっても、その「内包」を明確に把握できれば、法律の基準として採用することは可能である。つまり、全ての団体について全ての場合に判断できる基準(外延)がない場合でも、「誰が見てもこの団体は差別団体である」、「どのような定義(外延)を採用しても、この団体はヘイト団体に当たる」と言える場合があるからである。                                                   
本件で問題となっている在特会は、これまでに京都鮮学校襲撃事件の刑事訴訟で有罪判決が確定している上、民事訴訟では多額の損害賠償を言い渡されている(京都地方裁判所判決・未確定)。さらに水平社博物館事件民事訴訟でも損害賠償を命じられている(確定)。ロート製薬強要事件でも刑事訴訟で複数の有罪判決が確定している。                                           
金尚均が「京都朝鮮第一初中級学校事件の京都地裁判決で『人種差別に該当し、違法』と指摘された在特会のような集団に限った事前規制は可能ではないか」と述べているのは正当である。金尚均が指摘しているように、人種差別撤廃条約に基づいた解釈が不可欠である。条約には人種差別の定義(第一条)があり、ヘイト・スピーチの定義(第四条a)、及びヘイト団体の定義(第四条b)がある。日本政府は第四条abを留保しているが、条約第一条の人種差別の定義、第二条の人種差別の否定、第四条本文及びcを留保していないのだから、禁止された人種差別についての判断基準を持っているのであって、判断できないと解釈するべきではない。                                                                       
少なくとも、第一に、ヘイト・スピーチを繰り返してきたことが著名な団体又は個人、特に有罪判決や損害賠償判決が確定した団体又は個人であって、第二に、当該集会がヘイト集会となる恐れが高い場合、ヘイト・スピーチを繰り返す恐れが高いことが明白な場合には、公共施設の利用を拒否するべきである。


差別団体に公共施設を利用させてよいか(4)

四 人種差別撤廃条約に照らして考える
*                                             
ここで論じているのは、これまでに「◯◯人を殺せ」などと過激な人種差別・人種主義の煽動を行ってきたことで有名なヘイト団体が公共施設の利用を申請した場合、公共施設側はこれを受理すべきか、という問題である。                           
ヘイト・スピーチを行ってきた人種差別集団に公共施設を利用させ便宜を図ることは、人種差別撤廃条約に違反するので、受理すべきでないことは明白である。                      
人種差別撤廃条約第二条第一項は次のように定める。「締約国は、人種差別を非難し、また、あらゆる形態の人種差別を撤廃する政策及びあらゆる人種間の理解を促進する政策をすべての適当な方法により遅滞なくとることを約束する。このため、             
(a)各締約国は、個人、集団又は団体に対する人種差別の行為又は慣行に従事しないこと並びに国及び地方のすべての公の当局及び機関がこの義務に従って行動するよう確保することを約束する。                         
(b)各締約国は、いかなる個人又は団体による人種差別も後援せず、擁護せず又は支持しないことを約束する。                      
(c)各締約国は、政府(国及び地方)の政策を再検討し及び人種差別を生じさせ又は永続化させる効果を有するいかなる法令も改正し、廃止し又は無効にするために効果的な措置をとる。                                 
(d)各締約国は、すべての適当な方法(状況により必要とされるときは、立法を含む。)により、いかなる個人、集団又は団体による人種差別も禁止し、終了させる。                           
(e)各締約国は、適当なときは、人種間の融和を目的とし、かつ、複数の人種で構成される団体及び運動を支援し並びに人種間の障壁を撤廃する他の方法を奨励すること並びに人種間の分断を強化するようないかなる動きも抑制することを約束する。                          
それゆえ、日本政府は人種差別を撤廃するために「すべての適当な方法により遅滞なくとることを約束」し、「いかなる個人又は団体による人種差別も後援せず、擁護せず又は支持しないことを約束」した。さらに、「すべての適当な方法により、いかなる個人、集団又は団体による人種差別も禁止し、終了させる」ことを約束した。従って、日本政府(当然のことながら県も含む)は、過激な人種差別・人種主義の煽動を行ってきたことで有名な集団を後援、擁護、支持してはならない。従って、地方政府は、そのような差別集団に便宜を図ってはならず、公共施設の利用を認めてはならない。                                        
人種差別撤廃条約第四条本文に基づいて、日本政府は「一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは 種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束」している。                                     
日本政府は人種差別撤廃条約第4条(a)(b)の適用を留保しているが、第四条全体の適用を留保しているわけではないので、人種差別撤廃条約第四条本文に基づいて検討を行い、県条例第三条(2)(3)について判断するべきである。それゆえ、日本政府は、「人種差別を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる団体を非難」するべきであり、「このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとる」べきである。従って、県は、そのような差別集団に便宜を図ってはならず、公共施設の利用を認めてはならない。                                     
人種差別撤廃条約第七条は「人種差別につながる偏見と戦い」とし、「特に教授、教育、文化及び情報の分野において、迅速かつ効果的な措置をとることを約束する」としている。山形県や門真市が、教育施設の性格、とりわけ子どもが利用する公共施設と言う面を強調しているのは、条約第七条を実践するものとして高く評価できる。                                                       

結論として、日本政府や県が、差別団体、ヘイト団体に便宜を図り、一般の施設よりも安価・利便性のある公共施設の利用を認めた場合、それは人種差別撤廃条約に違反するものである。このようなことはあってはならない。  

Saturday, July 12, 2014

差別団体に公共施設を利用させてよいか(3) 

三 日本国憲法に照らして考える
*
 山形県や門真市と、その他の自治体の考えの分かれ目は、あたかも集会の自由をどう考えるかにあるかのごとく報道されているが、その認識は正しくない。                                      
本来の論点は、ヘイト・スピーチやヘイト集会に地方公共団体が管理する公共施設を貸すことができるかどうかである。地方公共団体がヘイト・スピーチやヘイト団体に協力してよいか、便宜供与してよいかという問題である。                                                           
 山形県条例について見てみよう。山形県条例第一条は「県民の生涯にわたる学習活動を総合的に支援し、地域の活性化を担う人材の育成及び県民の文化の振興を図るため、◯◯県生涯学習センター(以下「センター」という。)を置く」と、目的を定めている。この目的に明らかに反する活動に対して利用を認めるべきではないから、この目的に明らかに反する活動に対して利用申請を却下することは当然である。                                                           
そして、条例第三条は「知事は、センターの使用の目的、方法等が次の各号のいずれかに該当するときは、許可をしてはならない」として、次の三つを掲げる。(1)公益を害するおそれがあるとき。(2)センターの管理上適当でないと認めるとき。(3)その他センターの設置の目的に反すると認めるとき。                                               
このうち(1)については、公益を害することを明確に証明する必要があり、その現実的危険性が明確でない場合に利用を却下することはできない。(2)(3)についても、そのように判断する根拠を明確にする必要がある。過激な人種差別・人種主義の煽動を行ってきたことで有名な団体の活動であっても、それが室内で平穏に行われる限りは、(1)の要件を満たさない場合がありうる。                                                             
しかし、(2)(3)の要件を満たしていると判断できる場合がある。当該団体構成員が、ある外国人学校に押し掛けて異常な差別街宣を行い、裁判所による有罪判決が確定している場合。当該団体構成員が人権博物館に押し掛けて差別街宣を行い、裁判所による損害賠償命令が確定している場合。当該団体構成員が、ある企業に押し掛けて特定民族の女優をCMに使うなと強要行為を行い裁判所による有罪判決が確定している場合。たとえば、以上の要件を満たす場合、県は当該団体による公共施設利用申請を許可してはならず、却下するべきである。                                                                     
ここで重要なのは当該団体及び集会が人種差別、人権侵害であるのかである。一般的抽象的に集会の自由があるか否かではない。                                                                    
*                                      
1 憲法第一三条                                                     
日本国憲法第一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とする。個人の尊重、人格権、幸福追求権などの規定である。                                 
第一三条を直ちに権利請求の根拠とすることができるか否かについては議論がある。憲法学上、政府が個人の尊重に反する行為を積極的に行った場合には、当該行為が違憲であると判断されることがありうるが、政府の不作為に対して、個人が政府に作為を求める規定とは理解されていない。                                                                  
佐藤幸治(京都大学名誉教授)は、憲法第一三条の権利を「包括的基本的人権」と位置づけて、個人の尊重について次のように述べている。                                                                
「では、『個人として尊重される』とは、いかなる意味か。それは、上述のように、一人ひとりの人間が人格的自律の存在として最大限尊重されなければならないということである。この『個人の尊重』は、『個人の尊厳』、さらには『人格の尊厳』の原理と呼ぶこともできる。次の一四条は『人格の平等』の原理を規定しており、一三条と一四条と相まって、日本国憲法が『人格』原理を基礎とすることを明らかにするものである。『人格の尊厳』は当然に『人格の平等』を意味する理であるが、『人格の尊厳』は、他の人格との関係をひとまずカッコに入れて、『人格』それ自体のあり方ないし内的構造を示すものである。」(佐藤幸治『日本国憲法論』成文堂、二〇一一年、一七三~一七四頁)                                                    
辻村みよ子(東北大学教授)は、憲法第一三条の権利を「包括的権利と基本原則」に位置づけて、次のように述べている。                                                      
「一三条前段の『すべて国民は、個人として尊重される。』という規定は、いわゆる個人主義の原理を掲げたものと解される。個人主義の原理とは、『人間社会における価値の根源が個人にあるとし、何にもまさって個人を尊重しようとする原理』である。一方では、『他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義』を否定し、他方では『「全体」のためと称して個人を犠牲にしようとする全体主義』を否定することで、『すべての人間を自主的な人格として平等に尊重』している。」(辻村みよ子『憲法・第四版』日本評論社、二〇一二年、一五三~一五四頁)                                                             
ところで、本件で問題となっている事態は、政府(地方自治体)が差別団体による差別集会のために公共施設を供与するという事態であり、換言すれば、政府が差別行為に加担する事態である。第一三条に即して言えば、政府が個人の尊重や人格権に反する行為に手を貸す行為を行ってよいかである。                                                      
なお、第一三条は「すべて国民は」と定めているが、これが日本国籍保持者に限定される趣旨ではなく、日本社会構成員が含まれると解釈するべきであるし、そのように解釈されている。                                                      
また、「個人の尊重であるから人種・民族差別問題とは関係ない」と解釈するべきではない。個人の尊重の原理は個人主義の立場であるから、人種や民族が憲法第一三条の主体になることはない。しかし、人種・民族等の属性に対する攻撃は、他者のアイデンティティに対する侵害であり、諸個人の尊重を妨げる明白な行為である。憲法第一三条は「他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義」を否定するものであって、政府がそのような行為に加担したり、促進することは行ってはならない。                                
*                                              
2 憲法第一四条                                        
 日本国憲法第一四条第一項は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定める。                                                                           
 この規定は、国民が「差別されない」ことを明示しているが、政府による非差別の保障がどこまで義務的であるかについての見解は多様でありうる。政府が積極的に差別を行った場合には違憲であると判断されることがありうるが、政府が社会的差別を是正できなかったからと言って直ちに政府の責任が問われるわけではない。                                                             
 佐藤幸治は「元来平等は国家による不平等な取扱いを排除するという自由権的文脈で捉えられていた」としつつも、次のように述べている。                                                       
 「しかし、上述の平等観念の変容とも結びつきながら展開してきた現代積極国家にあって、国家は自ら差別してはならないだけでなく、社会に事実上存在する不平等を除去しなければならないという、積極的ないし社会権的内容を盛り込んで平等権を捉えようとする考え方が強くなってきた。そして、このことと関連して、社会の中の根強い差別意識のため、通常の社会経済的過程から疎外されている者が存すると認められる場合に、国家は、その者の平等を保障するための措置をとる義務を負うとともに、その者を通常の過程に参与させるために必要やむをえないと考えられるときは、一時的にその者に対して一般の人に対すると異なる特別の優遇措置を講ずることが求められるという考え方が登場する。」(佐藤前掲一九八頁)                                                            
 辻村みよ子は、形式的平等と実質的平等に関連して、次のように述べている。                                
 「しかし、上記のように、平等の観念自体に変化が生じ、実質的平等保障の要請が強まっていることによって、一四条にも実質的平等の保障が含まれると解することも妥当となる。ただし、実質的平等をも保障していると理解する場合にも形式的平等の原則が放棄されたわけではない。理論上はあくまで形式的平等要請が原則であり、法律上の均一的な取扱いが要請されるが、一定の合理的な別異取扱いの許容範囲内で実質的平等が実現されると解するのが筋であろう。」(辻村前掲一七二頁)                                                            
ここでも、第一三条と同じ構図で考えることができる。本件で問題となっているのは、政府(地方自治体)が差別団体による差別集会のために公共施設を供与するという事態である。換言すれば、政府が差別行為に加担し、「共犯者」となることである。第一四条に即して言えば、政府が法の下の平等や非差別に反する事態に手を貸す行為を行ってよいかが問われている。このことを抜きに、集会の自由などという議論をするのは非常識で、初歩的な間違いである。                                                        
*                                              
3 憲法第二一条                                                     
 日本国憲法第二一条第一項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」とし、第二項第一文は「検閲は、これをしてはならない。」とする。                                    
 差別団体の公共施設利用を集会の自由の問題に局限する思考によれば、集会の自由は表現の自由であり、優越的地位にあるので、当該団体や個人の性格や集会の内容に照らして判断してはならないとされる。そのような判断が行われることは、検閲と言うべき事態と言うことになる。しかし、このような思考は不適切である。                                                      
 第一に、憲法第一三条や第一四条を無視する根拠がない。憲法学は第二一条の表現の自由を「優越的地位」と称して、事実上絶対化する議論を展開してきたが、不適切である。憲法第二一条をいくら強調しても、憲法第一三条及び第一四条を覆す理由にはならない。                                
 第二に、表現の自由の根拠は人格権と民主主義に求められる。その人格権とはまさに憲法第一三条である。憲法第一三条の人格権を破壊するヘイト・スピーチを、人格権を根拠にする表現の自由を口実に許すのは論理矛盾である。                                               
 第三に、民主主義についても同じことが言える。ヘイト・スピーチはターゲットとされたマイノリティの社会参加を阻み、民主主義を否定する行為である。金尚均は「ヘイトスピーチの有害性は、主として、社会のマイノリティに属する個人並び集団の社会参加の機会を阻害するところにあり、それゆえ、ヘイトスピーチを規制する際の保護法益は、社会参加の機会であり、それは社会的法益に属すると再構成すべきである」と主張している(金尚均「名誉毀損罪と侮辱罪の間隙」『立命館法学』三四五・三四六号、二〇一二年)。                                       
民主主義を根拠に表現の自由の優越的地位を唱えながら、表現の自由を口実に民主主義の破壊を擁護するのは論理矛盾である。                                                                  
 第四に、表現の規制に関する内容中立原則なるものはアメリカ憲法の判例法理である。アメリカ判例に学ぶべき点が多々あるにしても、そのまま日本国憲法の解釈に持ち込むには、それを正当化する論理が必要である。                                                 
 しかし、十分な理由が示されたことはなく、むしろアメリカ憲法と日本国憲法の間には大きな差異が目立つ。                                                
①    アメリカ憲法の表現の自由規定(修正第一条)と日本国憲法第二一条は、規定様式が全く異なる。修正第一条は「連邦議会は、国教の樹立に関し、自由な宗教活動を禁止し、言論または出版の自由、平和的に集会し、苦情の救済を求めて政府に請願する人民の権利を縮減する法律を制定してはならない。」である。                              
②    アメリカ憲法には日本国憲法第一三条に相当する規定がない(独立宣言にはある)。                                            
③    アメリカ憲法には日本国憲法第一四条に相当する規定がない。                                               
④    本国憲法第二一条及び第一二条は、アメリカ憲法よりも、フランス憲法の内容となっているフランス人権宣言第一一条と類似した形式である。                                               
日本国憲法第一二条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」である。つまり、濫用の防止と責任である。                                                 
フランス人権宣言第一一条は「思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがって、すべての市民は、法律によって定められた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由に、話し、書き、印刷することができる。」である。すなわち、第一に表現の自由の保障であり、第二にその制約原理(濫用の防止)である。                                      
⑤    本国憲法第二一条及び第一二条は、アメリカ憲法よりも、国際自由権規約(市民的政治的権利に関する国際規約)第一九条第二項及び第三項と類似した形式である。                                          
国際自由権規約第一九条第二項は「すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。」であり、第三項は「2の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課すことができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。(a)他の者の権利又は信用の尊重。(b)国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護。」である。すなわち、第一に表現の自由の保障であり、第二にその制約原理(責任)である。                                             
これまでの憲法学の多数説は、憲法構造の違いを無視してアメリカ憲法の法理をそのまま持ち込もうとするものであり、日本国憲法の基本原理を踏まえているとは言い難い。差別表現をめぐる憲法学の多数説について詳しくは、前田朗「差別表現の自由はあるか」(本誌五六一~五六四号、二〇一二年)参照。  

差別団体に公共施設を利用させてよいか(2)  

二 問題の所在                                  
*                                        
1 集会の自由について                              
*                                                 
 『毎日新聞』が報じたように、二〇一三年には山形県生涯学習センターが、在特会会長の講演会への使用を拒否した。これは申請段階での拒否であったと言う。それに続いて門真市が使用許可を取り消した。この間、同様の事態は各地で起きていて、多くの自治体が在特会の差別集会に会場を使用させてきた。理由は「表現の自由」、「集会の自由」である。集会の自由は憲法第二一条に規定された「表現の自由」の一つと理解され、「表現の自由」は憲法上、優越的地位にあるとされている。それゆえ、合理的な理由のない限り集会の自由を制限することはできない。奈須祐治が一九九五年の最高裁判決を引用しているのは、この考え方に基づくものである。                                      
 しかし、この理解は問題の本質を見逃していて、根本的な疑問がある。ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチに関する議論に共通の特徴であるが、ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチの本質や被害について論究せずに、いきなり「表現の自由か、ヘイト・スピーチの規制か」、「集会の自由か、ヘイト団体の規制か」といった短絡的な二者択一を掲げる傾向が強い。このような思考は、事態の全体像に目を塞いで、一部の論点にすぎない表現の自由を闇雲に肥大化させる誤りである。                                 
 まず明らかにするべきことは、当該集会の性格である。当該集会が差別集会、差別煽動集会であるのか否かが出発点である。                                                     
 これに対して、憲法学多数説は「内容中立原則」を持ち出して、スピーチや集会の内容について判断してはならないという特異な主張をする。この理屈はアメリカ憲法の解釈として形成されてきたものを借用したものである。しかし、後述するように、これは日本国憲法の基本的立場とは言えない。                                                
 集会の自由について検討することは必要であるが、集会の自由だけの議論に限定するのは視野狭窄である。                                 
*                                            
2 差別煽動行為                                  
*                                          
 ヘイト・スピーチとは何かについては、これまでに何度も書いてきたので、ここではごく簡潔にせざるを得ない(前田朗『増補新版ヘイト・クライム』三一書房、二〇一三年、同編『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』三一書房、二〇一三年、のりこえねっと編『ヘイト・スピーチって何?レイシズムってどんなこと?』七つ森書館、二〇一四年など参照)。             
 最低限、見ておく必要があるのは、ヘイト・スピーチとはいかなる事態であり、いかなる被害を生むかである。というのも、ヘイト・スピーチは差別表現の一つであるが、単なる差別表現ではないからである。まず、ヘイト・スピーチの行為類型を見ておこう。                                
①            差別表明型。自民族の優越性の主張や、人種や民族を動機として他者への差別感情を表明する行為。アーリア人や日本民族の優越性の主張がユダヤ人や朝鮮民族の劣等性の主張につながった。                                       
②            名誉毀損型。名誉棄損罪や侮辱罪にあたる行為。京都朝鮮学校襲撃事件では、朝鮮学校をスパイ養成機関と誹謗するなど、朝鮮人を貶める発言を連呼した。ドイツでは集団侮辱も処罰されるが、日本では個人に対する名誉毀損だけが犯罪となり、民族に対する名誉毀損は犯罪ではないとされる。                                  
③            脅迫型。脅迫罪にあたる行為。相手に害悪が起きることを告知すれば脅迫であり、殺害予告もこれに当たる。                                                             
④            迫害型。単なる脅迫ではなく、他者を社会から排除するための行為。「朝鮮人を日本から叩き出せ」と迫害を行う。ナチスのユダヤ人迫害や旧ユーゴスラヴィアの民族浄化が典型である。                                                                          
⑤            ジェノサイド煽動型。「朝鮮人は皆殺し」のようなタイプである。集団虐殺の煽動は、アルメニアでもルワンダでも八〇万人もの大虐殺をもたらした。                                             
⑥            暴力付随型。暴力をふるいながら差別発言や差別煽動を行う場合や、差別的動機で暴力に出る場合。                                                               
 このようにヘイト・スピーチにはさまざまな行為類型がある。憲法学は①②だけを議論し、その他の行為は無視してしまう。それによって現実を無視し、差別と犯罪を放置し、被害を軽視する。                                                                
*                                                  
3 差別煽動の被害                                                      
*                                                                       
 ヘイト・スピーチの被害と保護法益も見ておく必要がある。保護法益については人間の尊厳と見るのか、それとも公共の秩序に関連付けるのかで対立があるが、もう少し事実に即して見るならば、ヘイト・スピーチによって侵害される権利は次のように多様な広がりを持つ。                                                        
①            市民的権利(生命、身体、安全、移動の自由、人身の自由)――「殺せ」「出ていけ」という脅迫により身の危険を感じ、実際に暴力被害を受けることもある。差別や暴力の煽動の危険性である。                                                   
②            政治的権利(社会参加の権利)――マイノリティが社会に参加して、民主的な意思決定に加わることも否定される。                                                                  
③            経済的権利(財産権、営業の自由、職業選択の自由、就労の権利)――公然と差別が主張され、煽動されている社会では、就職にも差支える。新大久保のヘイトデモにより店舗の営業に支障をきたし、収入が減るなどの被害がある。                                                         
④            社会的権利(教育権等)――京都朝鮮学校のように教育機関までもが被害を受けている。マイノリティの言語、文化、歴史を学ぶ機会を奪われることに繋がる。                                                
⑤            文化的権利(言語の権利、自己の文化を享受する権利等)――国連先住民族権利宣言が掲げたように、それぞれの民族には固有の言語、文化の権利を保障しなくてはならないのに、その基礎が失われる。                                                                 
⑥            国際人権法上の諸権利(平和への権利、連帯の権利、発展の権利等)――ヘイト・スピーチは社会的平穏を損ない、相互信頼と連帯を破壊する。                                                               
 刑法学的に見ると、①被害者の人間の尊厳(人格権、個人の尊重等々)に重点を置く見解と、②社会的法益(公共の平穏、公共の安全、公共の秩序等)に重点を置く見解に分かれる。最近、③社会参加の機会が奪われることを強調する見解も見られる。                                                             
標的とされた被害者の人間の尊厳が失われるから犯罪だと考えるのか。それとも、現場にいた直接の被害者だけでなく、その人と同じ属性を持つすべての人が潜在的被害者であると広く見るのか。さらにヘイト・スピーチは社会における平等を損ない、差別と暴力を煽動することによって民主的手続きや公共の平穏を破壊するから犯罪だと考えるのか。この点は刑法学においても大いに議論がなされているが、人間の尊厳を中核に考えたい。                                                             
この点につき、刑法学者の楠本孝(三重短期大学教授)は、ドイツにおける民衆扇動罪に関する判例を検討して、「個人の人格権として把握されるのは、人が主体的に作り上げてゆくものとしての人格であって、このような意味での人格について、人は価値尊重欲求を有しており、これを侵害するのが侮辱であり名誉毀損である。これに対して、人間の尊厳への攻撃とは、その人自身によってもどうしようもなく決定されている人格の中核部分も含めた人間存在そのものを否定し又は相対化しようとするものである。人間の尊厳は、人間それ自体に固有のものとして内在しているものであって、個人の業績を基準にして尊厳が割り当てられるといったものではない」とし、「人間の尊厳を尊重することの中に表現されているのは、人間を人格、すなわち、その素質に応じて自分自身をその特性において意識し、自由に自己決定し、自らの環境を形成し、かつ他者と交際しうる存在として認知することである。平等者が他の平等者と交際する可能性は、彼が平等者であることを否定された場合だけでなく、他者が彼に率直に、偏見なくかつ先入観なしに出会う可能性が深刻に制限されている場合も、既に侵害されている。他者を重大な犯罪的寄食者として表示することによって、他者との率直で、偏見なく、かつ留保なく交際し得る可能性は深刻に侵害される」と解説する(楠本孝「ドイツにおけるヘイト・スピーチに対する刑事規制」『法と民主主義』四八五号、二〇一四年)。        

差別団体に公共施設を利用させてよいか(1)

差別団体に公共施設を利用させてよいか(1)                  
――門真市ルミエール事件をめぐって                      
*『統一評論』14年8月号・9月号掲載予定原稿                
*                             
一 はじめに――門真市ルミエール事件              
二 問題の所在                            
三 日本国憲法に照らして考える                    
四 人種差別撤廃条約に照らして考える                 
五 ヘイト団体の認定は可能か                      
六 おわりに――条例の意義と射程                   
*                                    
一 はじめに――門真市ルミエール事件                  
*                                     
 本年四月一九日の『毎日新聞』は「門真市:ヘイトスピーチお断り! 排外主義団体に 条例活用し市施設使用規制」と題して「特定の人種への差別を扇動するヘイトスピーチ(憎悪表現)を繰り返す排外主義団体への対策として、門真市は既存条例を活用し、公民館や公園など市施設を使わせない方針だ。『規制する法律や条例がない』として、多くの自治体が施設の利用を認めているが、同市人権政策課(今月から人権女性政策課)は『ヘイトスピーチを差別ととらえれば当然の対応』としている」と報じた。                                           
 門真市は、人間の尊厳と権利の平等をうたった「門真市人権尊重のまちづくり条例」や、門真市都市公園条例が使用不許可の要件とする「集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある組織の利益になると認めるとき」などの条項を適用して、在特会の使用申請を却下した。デモの集合場所やイベント会場となる市施設や公園などの使用制限や許可取り消しの方針を明確にした。施設管理者や職員を対象にした研修も始めたという。                                        
 『毎日新聞』に「排外団体特定は難しい」とのコメントを寄せた憲法学者の奈須祐治(西南学院大学教授)は「関西空港反対派に市が集会使用を拒否した泉佐野市立市民会館事件の最高裁判決(一九九五年)で、集会場の使用拒否は『明らかに差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要』との判断を示しており、従来の判例で考えると、自治体が排外主義団体に特定して施設を貸さないというのは難しいのではないか」と述べている。                              
他方、刑法学者の金尚均(龍谷大学法科大学院教授)は「街頭でヘイトスピーチを繰り返す行為は、日本が批准する人種差別禁止条約に基づく不法行為にあたる。一般的に市施設の使用制限は、表現の自由との関係で難しいが、京都朝鮮第一初中級学校事件の京都地裁判決で『人種差別に該当し、違法』と指摘された在特会のような集団に限った事前規制は可能ではないか」と述べている。                                         
 門真市の事案は次のような経過をたどった。                                                        
 四月一四日、在特会のKが「朝鮮人は糞を食う民族だ」という差別集会(五月一一日予定)開催のため、ルミエールホール(門真市民文化会館)の使用申請を行い、ルミエールホール側が使用許可を出した。その後、Kは集会開催をインターネット上で宣伝した。                                       
 四月一五日、このことを知ったある市議会議員が市当局に問い質し、許可を取り消すように求めた。市側は、いったん使用許可を出したこともあってか、不許可にすると集会の自由の侵害になりかねないと考えたようで、当初、使用許可取り消しはできないと判断した。これに対して市議会議員が、当該集会が人種差別、人権侵害に当たること、在特会は人種差別行為を繰り返してきたことなどを指摘して、不許可とするように求め続けた。                                   
 その結果、四月二八日、許可取り消しの方向に決まり、五月二日、ルミエールの指定管理者からKに対して「利用許可の取り消し通知」を送付した。併せて『門真市教育委員会の考え方について』が明らかにされた。『門真市教育委員会の考え方について』(二〇一四年五月二日)は次のように述べている。                                                                  
「本市教育委員会としましては、門真市民文化会館が多くの市民に利用される施設であるため、本利用許可に反対の立場をとる者の妨害行為等により、他の利用者の安全確保が図れないことを危惧するとともに、いかなる団体であれ、人権、民族、門地など人が生まれながらにして持ち、自ら選択する余地のない点や国籍などの属性を捉まえての差別行為は許されないという姿勢に立ち、多くの子どもたちも利用する文化・教育の拠点である施設として、受け入れるべきではないという考え方であります。本施設の指定管理者にも、市民目線に立った総合的な判断のもと、教育委員会の考え方と軌を一にした対応を求めます。」                                                                             
前段の「本利用許可に反対の立場をとる者の妨害行為等により、他の利用者の安全確保が図れないことを危惧する」の部分は、第三者による妨害のための混乱を恐れるという姿勢であり、疑問がある。しかし、それに続いて「いかなる団体であれ、人権、民族、門地など人が生まれながらにして持ち、自ら選択する余地のない点や国籍などの属性を捉まえての差別行為は許されないという姿勢」を明示し、「多くの子どもたちも利用する文化・教育の拠点である施設として、受け入れるべきではない」としている点が重要である。以上が門真市ルミエール事件の経過である。                                                                            

 差別団体(排外主義団体、ヘイト団体)による施設使用については、山形県が二〇一三年六月、図書館などが併設されている県生涯学習センターでの在特会会長の講演会を、「図書館が併設され児童生徒が出入りする施設」であることを理由に不許可とした例がある。しかし、多くの自治体は施設利用を認めてきた。警視庁は、新大久保などのヘイト・デモについて「法的根拠がないから規制できない」と表明した。東京・豊島区等では、市民からの批判にもかかわらず、差別団体に公共施設を利用させてきたことが知られる。行政による表現規制につながりかねないという危惧が理由とされてきた。                                                                                                

レイシズムの社会学に学ぶ(6)外国人参政権の安全保障化とは

樋口直人『日本型排外主義』(名古屋大学出版会、2014年)                                 
樋口は「第七章 国を滅ぼす参政権? 外国人参政権問題の安全保障化」において、「外国人参政権は排外主義運動にとって重要なイシューである」、「保守から極右まで、怪しげな論拠にもとづき反対一色で盛り上がるのが、外国人参政権をめぐる現況である」とし、「しかし、これは日本に特異な現象である」と言う。統合政策の一環として外国人参政権を導入した欧州と異なり、日本の特殊性に着目する必要がある。そこでは「移民と安全保障をめぐる日本的特質」が問われる。                                
樋口は、外国人参政権が議論された時期として、1995、2000、2010年をあげる。1995年は、最高裁が、外国人参政権は憲法上禁止されているものではないという見解を出した年であり、これを受けて研究者の議論も深まり、国会議員の中で立法化が議論された。2000年には公明党が外国人参政権の法制化を唱えたため、連立政権の合意事項に取り入れられた。この時期に参政権反対派が目に見える勢力として登場した。2009年の政権交代後、鳩山由紀夫首相と小沢一郎民主党幹事長が外国人参政権法案の成立に意欲を示し、第三のピークとなった。ここから一気に安全保障化した反対論の登場となる。中国脅威論や、領土問題での対立などが盛んに唱えられた。樋口は、「ここに至って外国人参政権をめぐる政治は、外国人の権利をめぐる国内問題を完全に離れ、日本と他の東アジア諸国とをめぐる安全保障の従属変数になった」と指摘する。                                     

外国人参政権の安全保障化は、「嫌韓・嫌中」といった感情的な排外主義につながり、問題を「国民/外国人という二分法」に押し込んでしまう。「安全保障化という概念は、そうした二分法的な思考の方が現実から乖離しており、問題の解決ではなく新たな問題の種でしかないことを暴露する」という。

Friday, July 11, 2014

大江健三郎を読み直す(24)埋葬された危険なテーマ

大江健三郎「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」『文学界』1961年2月号                   
浅沼稲次郎暗殺の山口二矢をモデルとした右翼少年の意識を描いた作品だが、第一部に当たる「セヴンティーン」が文庫『性的人間』(新潮文庫)に収録されているのに、第二部「政治少年死す」は、激怒した右翼による猛烈な脅迫を受けて、掲載誌編集長は「お詫び」の「謹告」を発表し、大江はその後作品を「封印」し、半世紀を経た現在に至るも「幻の小説」となっている。学生時代に母校の図書館で該当号を借りた所、この部分は切り取られていたため、他の大学の友人にコピーしてもらって読んだ。読んだのは1977年だろうか。海賊版が出たことはあるようだが、今は『憂国か革命か テロリズムの季節のはじまり』(鹿砦社、2012年)に、深沢七郎「風流夢譚」とともに収録されている。これもゲリラ出版だ。ノーベル賞作家の初期代表作が半世紀も封印されたままというのは尋常ではない。完成形での出版が必要である。                        
文芸評論家の渡辺広士は、「第二部『政治少年死す』では、少年はその右の思想を過激な<純粋天皇>の思想に仕上げて、一人孤立したまま死の中に単身突入するのである。この<純粋天皇>の思想は、よかれあしかれ一人の作家が、一九六〇年前後の日本の状況の中でとらえたある実存の、可能な姿だ。」と書いている(文庫『性的人間』「解説」)。                       
大江は、最近次のように語っている。「三島由紀夫氏が強い関心を持たれて、『大江っていう小説家は、じつは国家主義的なものに情念的に引きつけられている人間じゃないだろうか』と、いろんな人にいわれたそうですし、直接、三島氏からの手紙を、両者を担当する『新潮』の編集者をつうじていただいた。そして三島氏の読み取りは正しかったろうと思いますね。一方では安保闘争の運動に心から入っていきながら、そのはんたいがわの、国家主義的な、ファッショ的な、天皇崇拝の右翼青年にも共感を感じているような、そういう人間として小説を書いていたことが、自分にもいまははっきり分かります。」(『大江健三郎 作家自身を語る』新潮文庫、2007年)。                                          
『憂国か革命か』で解説を書いた板坂剛は、次のように書いている。「大江健三郎の小説を、三島はホメもケナシもしなかったが、『風流夢譚』よりも『憂国』よりも文学的には数段上であることを、この時大江は見せつけている。/後年『奔馬』というテロリスト小説を三島はものにした。が、明らかに山口二矢の影が見えるにもかかわらず、時代背景を戦前に置き換えなければならなかったところに、三島の弱さがある。『セヴンティーン』は、三島が書かなければならなかった作品である、ということだけを明記して作品評に替えたい。/・・・山口二矢が刺したのは三島由紀夫だったのかもしれない。少なくとも、最も描かなければならない人物を描けなかったという点で、三島はこの時、大江に負けたのである。その敗北感は生涯消えることはなかった。」                                      

「政治少年死す」が「封印」されたことによって、右翼思想はみずからの限界に挑戦する姿勢を喪失した。他方、左翼思想も乗り越えるべき対象を視野の外に置くことになった。大江は、『ヒロシマ・ノート』『個人的な体験』を経て『万延元年のフットボール』へと豊かな文学世界を押し広げていったが、このテーマに直接挑むことはなくなり、常にその周囲を経巡る旅を続けることになったと言えよう。