Friday, March 10, 2017

国連人権理事会で沖縄の山城博治釈放要求発言

3月10日、ジュネーヴの国連欧州本部で開催されている国連人権理事会34会期において、NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR、前田朗)が、沖縄で長期身柄拘束されている山城博治さんの釈放を求めて発言しました。
発言要旨
「64人の日本の刑事法研究者が山城博治の即時釈放を求めている。山城(64歳)は沖縄でもっとも有名な平和活動家であり、軽微な犯罪で140日間も身柄拘束されている。昨年10月17日に平和への権利を求めて米軍基地反対行動したために逮捕された。弁護団は保釈を要求しているが却下された。家族との面会もできない。この身柄拘束は国際自由権規約に違反する。われわれは山城の釈放を求める。」
山城さん長期身柄拘束の不当性、人権侵害性については下記を参照願います。
国連人権理事会は、安保理事会及び経済社会理事会と並ぶ、国連の主要機関です。47か国の政府が理事国となっていますが、人権問題を扱うことから、国連と協議資格を有するNGOにも発言のチャンスが与えられています。
2015年9月に翁長雄志・沖縄県知事が米軍基地問題について発言したのも、同じ人権理事会30会期でした。
国連人権理事会34会期

Thursday, March 09, 2017

衰退する国の混迷する学校問題

前屋毅『ブラック化する学校』(青春新書)
<世界の教員の中でも格段に長い労働時間、
一日の平均読書時間はたったの13分、
増える精神疾患による休職…
なぜ先生はそんなに“忙しくなった”のか?
子どもが学ぶ場であり、社会の縮図でもある学校。
そんな学校で、いま何が起きているのか?
子どもを持つすべての親、教育関係者必読の一冊!>
「先生はなぜ忙しくなったのか」「公立小中学校で非正規教員が増えている理由」「心を病む先生たち」「先生に、子どもに、競争を強いているのは誰か」。
いずれもこれまでに知られていることだが、改めて整理されると、なるほど深刻な事態だということがより痛感させられる。もともと政府の教育予算が貧しいにもかかわらず、なんとかなっていたのは高度成長の右肩上がりの時代くらいで、あとは学校現場は貧困、紛糾、混迷の途をたどってきた。その中で、教師も子どもも押しつぶされないように自己防衛するしかない。
官僚と産業界は、使い勝手の良い子どもを育てることしか考えていない。一部のエリートと、大半の従順な子どもたちさえいれば良いという、従来から指摘されてきた官僚と産業界の亡国路線は今なお健在だ。本書もその弊害を厳しく指摘する。
著者はフリージャーナリスト。立花隆や田原総一朗のスタッフや週刊ポスト記者の経験。教育問題に関する著書が数冊ある。

Wednesday, March 08, 2017

ローザンヌ美術館散歩

地下鉄「リポンヌ/モーリス・ベジャール駅」を出てリポンヌ広場に出ると、すぐ前にリュミーヌ・パレスがあり、美術館、歴史博物館、貨幣博物館などが入っている。
「美術家の仕事――習作とスケッチ」展が開かれていた。1780年から1950年にかけての主にスイス領域の美術家たちの日常の仕事を示す、習作やスケッチを展示している。
Albert Anker, Rene Auberjonois, Alice Baily, Balthus, Ernest Bieler, Francois Bocion, Gustave Buchet, Paul Cezannne, Emily Chapalay, Jean Clerc, Luois Ducuros Alberto Giacometti, Giovanni Giacometti, Charles Gleyre, Ferdinad Hodler, Giuseppe Mazzola, August de Niederhausern (Rodo) , Leo-Paul Robert, Luuis Soutter, Theophile- Alexandre Steinlen, Felix Valloton.
それぞれの画家・彫刻家の作品が少しずつで、全体は決して多くはないが、楽しめる展示だ。特にビーラーの「神秘の水」の完成品と、そのための習作が数点並べられていた。これだけでも見る価値がある。
ポール・ロベールはヌシャテル美術館で初めて見た地元の画家だが、ローザンヌの連邦裁判所の装飾を手掛けたという。
ホドラーはハノーバー市役所のフレスコ画。とにかく多作なホドラーだが、いくつ見ても飽きない。
オベルジョノワは、孤高の画家で、第二次大戦による破壊を引きずり、人間と動物の暴力的な戦いを描き続けたという。
美術館を出た後、横手の階段を上って大聖堂に出た。テラスからローザンヌの街並みとレマン湖を展望しているうちに、小雨が降って来たので早々に退散。

Tuesday, March 07, 2017

大江健三郎を読み直す(76)棄教・転向・「人間宣言」の後に

大江健三郎『宙返り(上)』(講談社文庫、2002年[講談社、1999年])
本書出版時、3つのことで話題になったのを覚えている。1つは、ノーベル賞受賞後初の長編小説だ。2つは、「最後の小説」(大江自身の言葉)と目された『燃え上がる緑の木』以後の最初の小説であり、それゆえ本作こそが「最後の小説」か(これも裏切られたが)。3つは、オウム真理教事件以後の小説において、反社会的宗教団体を取り上げたこと。関心はあったが、ノーベル賞受賞後、大江作品を読まなくなったので、本書も今回初めて読んだ。
10年前に宗教団体の一部の急進派が原発を占拠・破壊することにより社会に世界の終わりを意識させようとしたが、これを阻止するために教組が、自ら「すべては冗談でした」と棄教を宣言した。
それから10年、地獄に降りて苦悩の歳月を過ごした教組が、新しい補助者たちとともに、教会を設立しようとする。上巻の舞台は東京およびその近郊である。主人公格の木津はアメリカ東部の大学芸術学の教授だったが、癌の予感と、若い青年・恋人との新しい生活のために、蘇生する教組の新しい教会づくりに協力する。
その場は、大江の故郷・四国の森の中であり、『燃え上がる緑の木』の教団が根拠地とした、あの建造物である。前の教団崩壊の後、全く別の教団が10年の歳月を経て同じ場所に着地する。
上巻では、教組、木津、若い恋人、その他、新しい教団を支えていく人々が登場し、お互いに支え合い、東京を発って、四国の森に到着するまでを描く。
テーマは、大江年来の「魂のこと」であり、「根拠地」である。『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『M/T』『燃え上がる緑の木』と書き継ぎ、書き直してきたテーマを、今回は、「宙返り」――棄教後の再興、転向後の再転向がいかになされうるか、そのなかで人間はいかに人生に向き合うのかを描く。
「宙返り」に匹敵する事態を、大江は、教団初期の財政を支えた女性の言葉で、昭和天皇の「人間宣言」に類比させる。
「神様なんて嘘でした。これからは人間です」という「宙返り」の歴史をこの国は持っている。これほど破廉恥なことを平気で宣う鈍感極まりない精神こそ、この国のエスタブリッシュメントである。一民間教団の教組の「転向」などさしたる重大事ではない、とも言えることになる。とはいえ、大江は逆にこの「転向」が「人間宣言」に匹敵し、さらにはそれ以上にスケールの大きい人類史的意義を有するものと考えているのであろう。
本作によって、いよいよ大江はフォークナーやドストエフスキーの水準に到達したのかもしれない。
「宙返り」の先、大江はどこへ向かうのか。それは下巻を待たなくてはならない。

Sunday, March 05, 2017

ルツェルン美術館散歩

ルツェルン旧市街を歩き、カペル橋と水の塔を渡る。カペル広場には出店が並んでいた。イエズス教会、フランシスコ教会をまわって、美術館を訪れた。鉄道駅の隣にあり、目の前にはルツェルン湖(フィアヴァルトシュテッター湖)の遊覧船の船着き場がせり出している。対岸にはホーフ教会の尖塔がそびえる。
ルツェルンにはローゼンガルト美術館とルツェルン美術館がある。ローゼンガルト美術館は近代美術の名作ぞろいだ。クレー、ミロ、ピカソがずらりと並ぶ。ルツェルン美術館はむしろ現代アート中心だ。
2つの展示が行われていた。
1つは18世紀以来の美術と日常生活に焦点を当てている。ホドラー、ペヒシュタイン、ジョバンニ・ジャコメティ、スペッリ、ユトリロなどの絵画に始まり、現代アートのインスタレーションや映像作品に至るまで、町、街並み、家庭をはじめ、多様な作品が展示されている。バロットンの後ろ姿の裸婦像は「華麗な花を生けた花瓶のようだ」と書かれていた。展示は、春、夏に何度か入れ替えられるという。
もう1つは、CLAUDIA COMTE展「10の部屋、40の壁、1059平方メートル」という展示である。コムテはグリッドとシステムとストロークの美術家だ。絵画、彫刻、インスタレーションで、ポップアートにも近い。ブランクーシの影響を受けたようだ。タイトル通り、10の部屋にそれぞれの展示がなされている。1部屋1コンセプトだ。作品を持ち込んだというよりも、壁面に絵を描き、ラインをつくり、その中に作品を展示している。ある部屋はチーズの絵とチーズをモチーフにした立体。ある部屋はドーナツ型の石彫数点が並ぶ。ある部屋には巨大なブランコと壁にはストローク。ある部屋にはプラスチック・オブジェ。
どれもおもしろいといえばおもしろいが、何を伝えようとしているかはわかりにくい。こちらが鈍感なだけか。解説では、直線、カーブ、多彩なグリッドによる分割と流線のことが繰り返し書かれている。

遡行する旅、氾濫する旅

立野正裕『スクリーンのなかへの旅』(彩流社)
<世界の聖地をめぐる旅を続ける著者。
映画のなかにも「聖地」を見出す。
それは人びとの心のなかで特別な意味を与えられた場所。
「聖なるもの」を経験するとはいかなることか。
約50本の映画をめぐって
スクリーンのなかへ旅をしながらじっくりと考える。>
旅する文学者はめずらしくないし、旅する文芸批評家もめずらしくない。旅のエッセイは世の中にあふれている。まして、いまや誰もが世界中のどこにでも行けるので、他人の旅の体験や思索に対する関心は薄れているかもしれない。
しかし、読者を飽くなき「精神のたたかい」に引きずり込む立野の旅をめぐる思索は特筆に値する。英文学者なのに授業で学生に英文学を読ませないと公言する立野は、テキストと現場、歴史と現在、記憶と予感、知性と感性を総動員して、どこでもない場所への、どこにもない場所への想像力を鍛えることを、学生に感じ取らせてきたのだろう。
48本の映画批評をまとめた本書は、「聖地」への旅、を掲げたもう一つの旅の思索である。冒頭の「辺境への旅」で、立野はピレネー山脈のロランの切通しを訪れる。本書の表紙に用いられた写真に引き付けられた読者は、わずか9頁を読み終えた時点で、本書のなかで繰り返し語られる思索の背景を手繰り寄せることができるだろう。読み進めながら、常に立ち返るべき地点だ。
切通しは世界各地にみられる。水や氷河の流れや地層の変動によって造形された切通しそれ自体、単に特徴的な地形にすぎない。特徴的というのは、見る者に与える感銘であって、それは一様ではない。切通しは、巡礼の通り道にもなるし、境界分断の関所にもなるし、激しい戦場にもなる。人間の思索と行動が切通しに歴史的社会的意味を付与してきた。悲哀の物語も波瀾万丈の物語も、切通しにはじまり切通しに終わる。
立野は『日曜日には鼠を殺せ』(フレッド・ジンネマン監督、1964年)のロランの切通しに立ち尽くして、人間、いかに生きるか、を問い続ける。
私が初めて読んだ立野の著作は、『精神のたたかい-非暴力主義の思想と文学』だった。これが立野の最初の単著である。本書に感銘を受けた私はぶしつけにも、すぐさま面識のない立野に連絡し、インタヴューを申し入れた。立野が快く受けてくれたので、そのインタヴュー記録は、前田朗『平和力養成講座』に収められている。
その後、立野は矢継ぎ早に著書を送り出してきた。『黄金の枝を求めて-ヨーロッパ思索の旅・反戦の芸術と文学』、『世界文学の扉をひらく(1・2・3巻)』、『日本文学の扉をひらく 第1巻』、『洞窟の反響―『インドへの道』からの長い旅』、『未完なるものへの情熱―英米文学エッセイ集』(スペース伽耶)――ここには立野文学の精髄が収められている。ただし、議論のエッセンスがお行儀よく収められているわけではないので、読者は要注意だ。あまり真剣に読むと<立野病>に罹患する恐れがあるし、軽い気持ちで入ると立野ワールドから弾き飛ばされてしまうかもしれない。
他方、『紀行 失われたものの伝説』『紀行 星の時間を旅して』(彩流社)では、文学と人生と旅をめぐる、もう一つの立野ワールドに触れることができる。旅行ファンや旅の達人や旅行作家ではなく、生きること、体験すること、泣き、笑うこと、ぶつかり合うこと、愛し合うこと、闘うこと、そのすべてに翻弄されながら、打ちのめされながら、鼓舞されながら、語ること。語り続けること。

Saturday, March 04, 2017

西欧の混迷とアジアの勃興の意味を解き明かす

進藤榮一『アメリカ帝国の終焉――勃興するアジアと多極化世界』(講談社現代新書)
アメリカ外交研究と国際関係論の碩学が、これまでの研究を踏まえて集大成した現代世界論のエッセンスである。
アメリカを中心とする西欧の文化的経済的衰退と混迷、その象徴としてのアメリカ産業・製造業の衰退、これに対して中国を中心とするアジア世界の文化的経済的飛躍。西欧の没落とアジアの台頭という、わかりやすい図式は目新しくないが、いま改めてその意味を具体的に問う著作である。
単にアジアが発展しているというだけのことではなく、ASEANが域内生産ネットワークの中心となったこと、その主導役が日本から中国に変わったこと、そして東アジアのトライアングル(日本、中国、ASEAN)とともに、南アジアのトライアングル(中国、インド、ASEAN)が形成され、両者を合わせて、アジアのダイアモンド構造への進展がみられるという。経済生産、貿易量、資本投下その他各種の指標から言って、いまやすでにアジアが世界の牽引車となりつつあり、今後その勢いは増すばかりだという。それゆえ、著者は「資本主義の終焉」ではなく「資本主義の蘇生」を語る。
グローバリゼーションがアメリカ中心の資本主義体制を支え、発展させたはずが、逆にアメリカの衰退とアジアの発展を帰結した理由を探り、そこから次を展望する。それゆえ、日同盟一本やりの安倍外交の破たんは明らかであり、異なる道を模索する必要が説かれる。
2020年や2050年の予測が示されているが、大筋は著者の言う通りだろう。多少の変動や揺り戻しはあるが、もはや現実は止められない。アメリカが断末魔の戦争に打って出ない限り。