Saturday, December 19, 2020

ヘイト・スピーチ法研究(157)

藤野裕子『民衆暴力――一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)

明治初期の新政反対一揆、自由民権運動器の秩父事件、日露戦争期の日比谷焼き討ち事件、そして関東大震災時の朝鮮人虐殺という、民衆暴動のメカニズムと社会心理を分析する。いずれも歴史学の先行研究が積み重ねられたテーマだが、それらを民衆暴動という観点でつなぎ、比較し、日本史に新たな光を当てる。話題の本で、いくつもの書評が出ている。

<現代の日本で、暴動を目撃する機会はまずないだろう。では、かつてはどうだったのか。本書は、新政反対一揆、秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺という四つの出来事を軸として、日本近代の一面を描く。権力の横暴に対する必死の抵抗か、それとも鬱屈を他者へぶつけた暴挙なのか。単純には捉えられない民衆暴力を通し、近代化以降の日本の軌跡とともに国家の権力や統治のあり方を照らし出す。>

秩父事件を私は「非国民」研究の一環として取り上げた。関東大震災朝鮮人虐殺を私はヘイト・クライムの一環として、そしてジェノサイド研究の一環として位置づけている。上記4つの民衆暴動を一つの視点で比較するという発想は持っていなかったので、なるほど、こういう研究があり得たのか、と新鮮だった。

ジェノサイドについては、2000年前後にまとめて論述し、『ジェノサイド論』(青木書店)を出したが、その後、論及できなかった。昨年からジェノサイド及び人道に対する罪について改めて取り上げることにして、この秋にはコリアン・ジェノサイド論や、コリアン文化ジェノサイド論のための論文を書いているところだ。その関心から本書を読んだので、良いタイミングだった。

日本では国家暴力の研究自体が不十分だと思うが、東アジアにおける国家暴力については徐勝を先頭に議論が進んできた。民衆の責任については、関東大震災で言えば山田昭次をはじめとする調査研究がある。藤野は、関東大震災朝鮮人虐殺を否定し歪曲する歴史修正主義の動きに流されないように、国家暴力と民衆暴力の双方に目を向けながら、民衆暴力の機制を論及している。国際的なジェノサイドや人道に対する罪の研究と照らし合わせながら読めるので、有益である。ヘイト・クライム/スピーチ研究にも参考になる。

随所に引用したくなる文書があるが、ここでは結論部分の下記だけ引用しておこう。

「本書が描き出したように、近代日本の進展において、新たな民衆暴力の要因が形を変えて再生産され、国家や社会の態勢は常に暴力の問題を軸に再編成されてきた。その歴史が現在の日本とかけ離れていると感じられるなら、それはなぜなのか。現在の国家・社会の態勢が暴力を不可視化しているからか。あるいは、国家の暴力が疑う余地のないほど強大化しているからか。現代の日本で暴力はどこに、どのように存在しているのだろうか。民衆暴力の歴史は、現在起きている事象を、これまでとは異なる角度から見直す手がかりになる。」

民衆暴動の視点から、第二次大戦後の混乱期の騒擾事件や、60年安保闘争や、その後の全共闘による学園紛争はどのように見えるのだろうか。

また、法律論の関連では、騒擾罪や凶器準備集合罪や公安条例の思想を支えた「集団=暴徒論」との関連も視野に入るだろう。戦後の日本の検察および裁判所が民衆運動を弾圧する際に用いてきた「集団=暴徒論」の歴史的系譜を、本書が見事に提示しているといえよう。