Sunday, March 11, 2018

『刑罰制度改革の前に考えておくべきこと』(1)


本庄武・武内謙治編『刑罰制度改革の前に考えておくべきこと』(日本評論社、2017年)
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18歳以上選挙権の実施に伴い、法務大臣から法制審議会少年法・刑事法部会に、少年法における「少年」の年齢見直し等の諮問が出て、部会の審議が始まった。

選挙権年齢と少年法の年齢がどう関係するのか、よくわからない諮問だ。日本の法律では、婚姻年齢、法定強姦年齢、児童福祉法年齢等ばらばらであり、それで何も問題はなかった。選挙権年齢が変更になったからといって、他の年齢を変更する理由にはならない。

ところが、部会の審議は、選挙権年齢の変更など口実に過ぎず、起訴猶予等に伴う再犯防止措置、宣告猶予制度、罰金の執行猶予制度、刑の全部の猶予制度、保護観察試作の充実、社会内処遇の新措置、施設内処遇と社会内処遇の関係等の議論を始めている。選挙権年齢の変更を口実にして、なんと刑罰制度全体の見直しを進めているのだ。法務官僚と御用学者のやり口はいつもこうだ。

この状況に危惧を抱いた少年法・刑事法研究者による研究の成果が本書である。以下、主要論文を簡潔に見ていこう。


村井敏邦「議論すべきは何か」論文は、少年法適用年齢と刑罰改革について考えるために、基本に立ち返る。刑罰改革の論理をいかに構築するか。それには少なくとも戦後の刑罰改革の歴史を検証して、そこから得られた教訓を現在の課題の中に活かすのでなければならない。そこで村井は、戦後の刑法全面改正論議、監獄法改正、名古屋刑務所事件に端を発した行刑改革を振り返り、①宗教理念等による刑罰改革、②政治理念による刑罰改革、③矯正理念による刑罰改革、④犯罪抑止策としての刑罰改革、⑤人権論としての刑罰改革、という5つの型を措定して、過去と現在の議論の特質を整理する。選挙権年齢変更に伴う年齢変更は、どう見ても、③④⑤ではなく、②に該当する。しかも、法制審議会の議論は本来の課題を逸脱して進行している。保護と矯正の関係、保護処分と刑罰の関係について基礎に立ち返った慎重な検討が必要であるという。


土井政和「自由刑の純化と刑務作業」論文は、国際的にも国内的にも論じられてきた自由刑の単一化論の現在的意味を考察しながら、日本における刑務作業のあり方を論じる。もともと、刑務作業には①受刑者の労働力の利用、②刑罰的害悪の補完、③規律維持機能、④改善・矯正・社会復帰、⑤勤労の権利と義務、といった機能から理解されてきた。日本では④が通説的見解とされている。かつての刑法改正作業においてもこの点は重要論点として議論され、拘禁概念が豊富化してきた。現行刑法では、刑罰内容として受刑者の作業義務が設定されている。このため作業の有益性より、作業確保が優先される。土井は、2013年に国連社会建機約委員会から日本政府に対して出された勧告「矯正の手段又は刑としての強制労働の廃止」について、特に懲役刑の実態が矯正や社会復帰に役立っているかの検討を行う。自由刑の純化には、刑罰的介入の縮減(国家的介入の制限)だけではなく、自由刑の弊害の除去、社会的援助の提供(国家的支援の提供)という側面もあるはずで、その具体化こそが課題であるという。


石塚伸一「教育的処遇(矯正処遇)」論文は、教育的処遇に関する刑法改正や監獄法改正の議論を手がかりに、矯正処遇を刑罰内容とすること、及び、処遇を懲罰によって矯正することの問題性を問う。被収容者の人間の尊厳と主体性を確立し、自由刑の思想にもデモクラシーとリベラリズムを導入するには、自由刑の単一化、懲罰によらない処遇が望ましい。自由刑の純化と社会復帰の支援を同時に可能にする理論的枠組みが必要になるが、ドイツ憲法裁判所のレーバッハ判決が、受刑者の社会復帰についての権利を人間の尊厳から導出したことが参考になる。石塚は、矯正処遇の主体と客体の関係性を解きほぐすことで、「意思に反する矯正処遇」の回避を図り、功利主義の施設法から人道主義の処遇法への転換を具体化しようとする。自由刑を拘禁刑(禁固刑)に単一化し、矯正処遇や矯正指導を拒否したことを理由に懲罰を科すべきではないという。


1980年代から90年代にかけて、国際人権法の風が日本に吹き込んだ。代用監獄廃止の提言が典型であったが、その先陣を切ったのがカレン・パーカーであった。日本軍「慰安婦」問題を国際社会に持ち込んだのもパーカーである。当時も今も国際教育開発(IED)というNGOを率いて、国連人権理事会で活躍している。1997年か98年だったか忘れたが、彼女が、当時の国連・差別防止少数者保護小委員会の本会議で、「日本の刑務所では受刑者に強制労働を課している。ILO条約違反だ」と発言したことがあった。さすがの私も、今の日本では実務家はもとより、研究者でもパーカーの議論について行ける人はほとんどいないだろう、と思った。自由刑の純化とは言っていたが、言葉だけであって、本当に純化をめざしていた研究者はいただろうか。あれから20年の歳月がたつ。実務は変わらない。名古屋刑務所事件による改革が少しは改善と思いきや、焼け太りになった面がある。さらに改悪を目指しているのが法務官僚と御用学者だ。しかし、社会権規約委員会の勧告が出た。その意味では、今こそ、国際人権法に立脚した自由刑の単一化論をしっかり展開すべき時だろう。