Sunday, February 14, 2021

<被害者中心アプローチ>をめぐって(8)

前回、真実和解委員会や真実和解特別報告者について紹介したところ、いくつか質問をいただいた。1つは、真実和解委員会のそのものについて具体的な内容をもっと知りたいという趣旨である。もう1つは、日本軍性奴隷制(慰安婦)問題における和解についてである。

1の真実和解委員会については、次の著書が有益である。

歴史的記憶の回復プロジェクト『グアテマラ虐殺の記憶――真実と和解を求めて』(岩波書店、2000年)

プリシナ・ヘイナー『語りえぬ真実――真実委員会の挑戦』(平凡社、2006年)

阿部利洋『紛争後社会と向き合う――南アフリカ真実和解委員会』(京都大学学術出版会、2007年)

阿部利洋『真実委員会という選択――紛争後社会の再生のために』(岩波書店、2008年)

アレックス・ボレイン『国家の仮面が剥がされるとき――南アフリカ真実和解委員会の記録』(第三書館、2008年)

アンキー・クロッホ『カントリー・オブ・マイ・スカル――南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩』(現代企画室、2010年)

杉山知子『移行期の正義とラテンアメリカの教訓』(北樹出版、2011年)

真実和解委員会は1980年代からラテンアメリカで始まった一方、南アフリカのアパルトヘイトに関する真実和解委員会が有名であるので、その両方を見ればおおよそのことはわかる。日本でも2000年代に上記のような研究が進んだ。

 

2の日本軍性奴隷制(慰安婦)問題における和解については、2つの論点がある。

(1)   和解と裁きの関係――真実和解委員会と刑事裁判の関係

(2)   朴裕河著『和解のために』をどう見るか

 

(1)    和解と裁きの関係――真実和解委員会と刑事裁判の関係

この点は必ずしも明確ではないと思う。真実和解委員会と刑事裁判を矛盾すると捉える見解もあるが、並列的と見る見解もあるし、刑事裁判には真実発見機能や和解機能もあると見る立場もあるからだ。

また、真実和解委員会は198090年代に多かったが、1998年の国際刑事裁判所規程により2002年に国際刑事裁判所が発足して以後、真実和解委員会から刑事裁判への流れができたと言えるかもしれない。

慰安婦問題について、クマラスワミ報告書やマクドゥーガル報告書は、責任者処罰という形での裁きを勧告した。同時に、両報告書は国際的レベルで真実発見機能を持ったといえよう。

慰安婦問題について政治権力レベルでは国際裁判も国内裁判も行われなかったが、2000年女性国際戦犯法廷が実施された。女性法廷は判決宣告・有罪認定にとどまり、刑罰負荷も量刑もなかったが、「民衆法廷という形態をとった真実和解委員会でもあった」。

ただ、慰安婦問題では、すでに30年に及ぶ議論がなされてきた中で、誰と誰の和解なのかが混乱してきた面がある。本来なら加害者と被害者の間の和解が語られるべきだが、加害者には中曽根康弘のような慰安所設置に関与した個人と、日本軍という組織及び日本政府の加害性が問題となる。個人の法的責任とは別に、国家の法的責任と道義的責任が浮上する。日本政府は法的責任を否定しつつ、道義的責任をとると称してきたが、実際には道義的責任も否定する言動が目に付く。アジア女性基金や日韓合意は、道義的責任のための措置ともいえるが、道義的責任を解除するためのトリックでもあった。

日韓合意について、

前田朗編『「慰安婦」問題・日韓「合意」を考える』(彩流社、2016年)

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784779122132

 

(2)    朴裕河著『和解のために』をどう見るか

『和解のために』及び『帝国の慰安婦』については、すでに何度もコメントした。要するに、「和解」概念を身勝手に改竄して、被害者に「和解」を押し付ける議論はセカンドレイプに等しいということだ。

前田朗編『「慰安婦」問題の現在』(三一書房、2016年)

https://31shobo.com/2015/10/16001/

 

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以下は、前田朗「真実・正義・補償に関する特別報告書(一)」『統一評論』577号(2013年)より

 

三 日本軍慰安婦問題の場合

 

 デ・グリーフ報告書の紹介は次回も続けるが、以上に紹介した前半部分について、日本軍慰安婦問題に照らして、最低限必要なコメントを付しておこう。

 第一に、真実への権利である。慰安婦問題が浮上した一九九〇年代、何よりも真実発見が重要であったことは言うまでもない。日本政府は事実を否定しようとしたが、歴史学者や支援団体の調査によって次々と事実が明るみに出て、韓国のみならずアジア各地から被害者が名乗り出ることによって、事態が一気に明らかになっていった。そのことが河野談話や村山談話につながった。

 しかし、九〇年代後半から現在に至るまで、真実を闇に葬り去るための策動が続いていることは言うまでもない。

 第二に、国際社会では四〇を超える真実和解委員会の実例があるという。日本軍慰安婦問題については、研究者、被害者団体その他の民間団体による多くの調査があるが、公的な真実和解委員会は設置されなかった。日本政府は内部的な調査を行い、事実を否定できなくなったために河野談話と村山談話を出さざるを得ず、あとは「アジア女性基金」で幕引きを図った。本格的な調査は行われず、しかも情報公開も不十分であった。国家責任を逃れるためのアジア女性基金政策は欺瞞的であり、破綻せざるを得なかった。ただし、アジア女性基金関係者の調査によって一定程度の事実が明らかにされた。いずれにせよ、日本軍慰安婦問題については公的な真実和解委員会が設置されなかった。

 他方、国連人権委員会のラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告書」及び人権小委員会のゲイ・マクドゥーガル「戦時性奴隷制特別報告書」が、国連人権機関レベルにおける真実発見機能を果たしたと言えよう。

 また、民間における調査・研究は今日に至るまで長期的に行われている。特に、二〇〇〇年に東京で開催された「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」は、民衆法廷という形態をとった真実和解委員会でもあったと言えるだろう。

 第三に、委員会の期間である。初期の真実和解委員会はいずれも短期間であったという。日本政府もごく短期間の内部調査しか行わず、重要な関連資料を明らかにすることさえしなかった。形式的に調査したアリバイだけを残して、真相を闇に葬るための「調査」というしかない。民間における調査・研究は長期にわたった。九〇年代における調査は女性国際戦犯法廷に取り入れられて、大きな前進となった。

 第四に、調査するべき対象の期間である。アルゼンチンが七年、ケニアの場合は四四年という。日本軍慰安婦問題は一九三〇年代から一九四五年までの一五年と言えよう。もっとも、軍慰安婦以前からの近代日本における性奴隷制という観点ではもっと長期にわたる調査が必要ということになる。

 他方、デ・グリーフ報告者は言及していないが、対象期間と調査機関との間の時間の隔たりを見ておく必要もある。南アフリカ真実和解委員会は、アパルトヘイト体制終了後に比較的短期間で開始された。東ティモールも同様である。これに対して、日本軍慰安婦問題は、被害女性が半世紀の沈黙を破ったことから調査が始まったという点で大きな特徴がある。旧ユーゴスラヴィアやルワンダの悲劇と異なり、被害時期と調査時期の間の大きな隔たりが調査を困難にした面がある。もっとも、軍による犯罪のため、数多くの証拠が隠蔽されたとはいえ、それでも一定程度の証拠が残されていた。

 日本軍慰安婦問題について、いかなる形態の機関によって真相解明が行われるべきだったのか、一九九〇年代初期の議論では、必ずしも十分な議論がなされなかったと言えよう。日本政府にどのような調査をさせるべきかという議論も不十分であったかもしれない。

内閣部局が調査に当たるのは当然だったかもしれないが、朝鮮総督府、内務省、陸軍・海軍などの全体的な資料調査は十分に行えなかった。また、法務省や裁判所も調査に協力していないため、国外移送目的誘拐罪の判決があることさえ、いまだに日本政府は認めていない。被害女性と支援団体が東京地検に告訴・告発しようとした時にも、東京地検は何ら捜査することなく、告訴・告発を不受理とした。

当時、研究者や支援団体の中で真実和解委員会という発想はなかったように思う。ラテンアメリカ諸国における真実和解委員会の実践に関する知識がほとんどなかったためであろう。グアテマラ真実和解委員会の成果が紹介されたり、南アフリカ真実和解委員会が動き出したニュースが流れたのは、やや後の事だったように思う。韓国の過去事整理委員会の活動もやや後に始まった。現在では、そうした多くの成果を基に考えることが出来るが、九〇年代初頭にそのような発想を持てなかったのは、やむを得なかったのかもしれない。