Friday, June 10, 2022

ヘイトスピーチ研究文献(198)憲法問題のソリューションb

市川正人「1 表現の自由――ヘイトスピーチの規制」市川正人・倉田玲・小松浩編『憲法問題のソリューション』(日本評論社、2021年)

  前回、市川論文の概要を紹介した。感想をいくつか並べておこう。

  第1に、ヘイト・スピーチ規制について、市川は消極説か中間説という点である。

  市川はヘイト・スピーチ刑事規制そのものが違憲となるとは決めつけていない。むしろ、十分な立法事実が論証されれば刑事規制が正当化されることはありうると見ている。現状では立法事実はないと見ているが、川崎市条例が刑事罰を導入したことについて、違憲か合憲かという論点を検討せずに、条例の限定解釈の必要性を論じている。つまり、川崎市条例の刑事罰方式が合憲であることはわざわざ検討するまでもなく認めているとも言える。その上で、限定解釈を施すと主張している。こう見ると、市川説を消極説と見るよりも、奈須祐治『ヘイト・スピーチ法の比較研究』のように、中間説と見る方が妥当なのかもしれない。ただ、立法事実に関する市川の議論の中身は不明である(この点は後述する)。

2に、市川の限定解釈論は明白かつ現在の危険の考え方を前提としている。

明白かつ現在の危険の考え方は、随分と前に提唱されたものである。伊藤正巳『言論・出版の自由 その制約と違憲審査の基準』(岩波書店)は名著とされていたので、1970年代半ば、私は学生時代に読んだ。本が出たのは1959年だ。しかし、長い間、最高裁判所によって受け入れられてこなかった。伊藤は最高裁判事になったが、最高裁は伊藤理論を明白には、あるいは実質的には受容しなかったといえよう。すでに、日本国憲法の解釈としては過去の遺物となった考え方と見たほうが良い。多くの憲法学者が揃いも揃って、半世紀以上の長期にわたって大声で主張してきたものの、実務には影響を与えることができなかった。それでも明白かつ現在の危険を唱えるのは、市川なりに筋を通すということだろう。憲法学者としてここは譲れないと表明しておくことには意味があるだろう。とはいえ、それでは憲法解釈にならない。学問的に怠惰であることの証拠と言われかねないだろう。しかも、明白かつ現在の危険論はもともと憲法に書かれていない独特の発想であるから、実質的に改憲論とならざるをえないだろう。

 第3に、とはいえ、具体的な結論を見ると、市川と私の間にさほどの大きな違いはないのかもしれないとも思う。

 市川は煽動タイプについて、「本邦外出身者をその居住する地域から退去させる行為――本邦外出身者の居住する地域に押しかけ無理やり退去させることのほか、居住する地域に押しかけ騒音を出し平穏な日常生活を損なうことなど――に出る明白かつ現在の危険があって初めて禁止された『本邦外出身者に対する不当な差別的言動』にあたる、と限定解釈が加えられるべきであろう」(13)という。

「居住する地域に押しかけ騒音を出し平穏な日常生活を損なうこと」を例示して、その明白かつ現在の危険があれば、条例の刑事罰適用を認める趣旨である。立法趣旨に適った結論に接近している。

 ただ、「居住する地域に押しかけ」の「地域」をどのように考えるかで結論が異なるかもしれない。川崎市を念頭に置くのか、それとも桜本を念頭に置くのかで異なる。現に最近のヘイトデモは桜本ではなく、川崎駅前で行われている。

 また、市川は「騒音を出し平穏な日常生活を損なうこと」と言う。差別そのものが「平穏な日常生活を損なう」のではなく、「騒音」が「平穏な日常生活を損なう」と考えるのかもしれず、そうであれば、私とは考え方が異なることになる。

 侮辱タイプについて、市川は「川崎市の本邦外出身者の集住地域でなされ、特定の人や団体に向けられているのと同視できるようなものを指す、と限定して解釈すべきであろう」と言う。

一定の限定の下で、侮辱タイプのヘイト・スピーチ規制を認める趣旨である。「特定の人や団体に向けられているのと同視できる」の解釈が問題となる。ただ、侮辱タイプで、なぜ「集住地域」が登場するのか、理解は難しい。刑法の侮辱罪と比較しても、地域の限定を付す理由はないのではないか。侮辱罪の保護法益をどう見るかに関わるが、社会的評価説であれ名誉感情説であれ、地域の限定を付すことを説明できないだろう。煽動タイプであれば、平穏生活侵害説による説明も可能だが、それでは煽動タイプと侮辱タイプを何のために分けたのだろうか。

(続く)