Thursday, June 16, 2022

ヘイトスピーチ研究文献(198)憲法問題のソリューションe(最終回)

ヘイトスピーチ研究文献(198)憲法問題のソリューションe

市川正人「1 表現の自由――ヘイトスピーチの規制」市川正人・倉田玲・小松浩編『憲法問題のソリューション』(日本評論社、2021年)

第8に、立法事実である。

ヘイト・スピーチを規制する立法の根拠となる事実があるかどうか。つまり、差別やヘイト・スピーチの事件がどれほど発生しているか。ヘイト・スピーチによる被害がどの程度のものであるか。

*

①市川は、『表現の自由の法理』(日本評論社、2003年)において、差別的言動について詳細な研究を行い、ヘイト・スピーチに該当する言動の規制の可否について検討した。これを、私は『ヘイト・スピーチ法研究序説』で引用し、コメントした。ここでは、私のコメントではなく、憲法学者の奈須祐治『ヘイト・スピーチ法の比較研究』(信山社)463465頁から引用しておこう。奈須は「市川は規制には非常に消極的であるが、立法事実によっては限定された規制の余地は認める」という。これが2003年当時の市川説である。

②それでは12年後に市川はどのように論じただろうか。市川正人「表現の自由とヘイトスピーチ」『立命館法学』360(2015)は、ヘイト・スピーチの被害に関連して、次のように述べた。

「こうした拙稿のような立場については、ヘイトスピーチがマイノリティの人々に対して与えている被害についての理解、想像力を欠いたものである、所詮、マジョリティの立場からの立論に過ぎないといった強い批判がある。確かに、ヘイトスピーチの問題を考えるにあたりマジョリティに属する者にはマイノリティの人々の被害についての想像力が求められる。しかしまた、ヘイトスピーチを禁止し処罰する法律を制定した場合、それがわが国における表現の自由の保障に対してどのような影響を与える可能性があるかについての想像力も必要ではないだろうか」。

奈須祐治は「市川はヘイト・スピーチが過激化して以降も規制が必要なほど立法事実が変化したとは考えておらず、依然として規制に慎重な立場を表明している」という。

私は『ヘイト・スピーチ法研究原論』239頁で次のように指摘した。

「第一に市川は「マイノリティの人々に対して与えている被害についての理解、想像力を欠いたものである、所詮、マジョリティの立場からの立論に過ぎないといった強い批判がある」という。これは想像力ではなく、被害認識、人権侵害認識の問題である。市川は「マジョリティに属する者にはマイノリティの人々の被害についての想像力が求められる」と述べながら、その内実に言及しない。「しかし」以下で論点を変えてしまう。被害の有無及び被害の法的評価についての認識が問われているのに、答えようとしない。なぜ論点を変えるのであろうか。マイノリティの表現の自由を犠牲にしてマジョリティの表現の自由だけを求める本当の理由は何なのか。市川に限らず、ヘイト・スピーチ刑事規制に消極的な論者はほとんど被害について語らない。奥平康弘は「言論が言論である限り、他人に対してただちに現実に害悪を与えない」と主張する(『序説』七四七頁参照)。現に行われているヘイト・スピーチを見て「被害がない」と判断できる能力はどうすれば身に着くのだろうか。」(『原論』239)

 ヘイト・スピーチの刑事規制の可否を論じるためには、「ヘイトスピーチがマイノリティの人々に対して与えている被害についての理解」(市川)が重要となる。「被害の有無及び被害の法的評価についての認識が問われている」(前田)。

③さらに5年後の論文ではどうだろうか。市川正人「1 表現の自由――ヘイトスピーチの規制」市川正人・倉田玲・小松浩編『憲法問題のソリューション』(日本評論社、2021年)である。

市川は「特定の民族に対する特にひどい侮辱表現を当該民族に属する個人に直接向けられていない場合であっても処罰する法律・条例が許されるかどうかを判断するためには、日本における民族的マイノリティに対する差別の歴史と現状、当該民族を侮辱する表現がその集団に属する者に与える衝撃の程度、当該民族を侮辱する表現の頻度などを考慮する必要があろう」(11)という。

正当な認識である。

以上が市川説である。若干の感想を述べておこう。

1に、2003年当時の市川説は、ヘイト・スピーチ刑事規制に消極的ではあるが、立法事実によっては規制できる場合があるとしていた。しかし、その立法事実がないと判断していたと見える。

それでは、市川はどのような情報に基づいてどのように検討したのだろうか。いかにして立法事実はないと判断したのだろうか。それが示されていない。

2に、12年後の2015年当時の市川説も、「ヘイト・スピーチが過激化して以降も規制が必要なほど立法事実が変化したとは考えておらず、依然として規制に慎重な立場を表明している」(奈須)。

それでは、市川はどのような情報に基づいてどのように検討したのだろうか。いかにして立法事実はないと判断したのだろうか。それが示されていない。

ヘイト・スピーチの刑事規制の可否を論じるためには、「ヘイトスピーチがマイノリティの人々に対して与えている被害についての理解」(市川)が重要となる。それでは市川は「ヘイトスピーチがマイノリティの人々に対して与えている被害についての理解」をどのように形成したのだろうか。いかなる情報に基づいて判断したのだろうか。どのような基準で可否を決するのだろうか。それが全く示されていない。

3に、さらに5年後の2021年に、市川は「日本における民族的マイノリティに対する差別の歴史と現状、当該民族を侮辱する表現がその集団に属する者に与える衝撃の程度、当該民族を侮辱する表現の頻度などを考慮する必要があろう」と正当な指摘をする。

「考慮する必要があろう」と結ぶ市川は、それでは、何をどのように考慮したのだろうか。市川論文を読み進めても、「日本における民族的マイノリティに対する差別の歴史と現状」について何も書かれていない。「当該民族を侮辱する表現がその集団に属する者に与える衝撃の程度」について論じられない。「当該民族を侮辱する表現の頻度」について沈黙が貫かれる。

市川は5年間、何を「考慮」したのだろうか。18年間、何を検討したのだろうか。

立法事実については、ヘイト・スピーチ解消法の制定過程においても議論がなされた。それまで「日本には人種差別はない」と言い募ってきた日本政府は、2018年の人種差別撤廃委員会で、日本に人種差別があることを認めざるを得なかった。人種差別撤廃委員会からは、日本には長年にわたって人種差別があり、ヘイト事件が起きてきたことを指摘された。

立法事実については、これまで日本におけるヘイト・スピーチ研究で詳細に報告されている。数多くのジャーナリスト、被害当事者、研究者、弁護士が論陣を張ってきた。その一部を私は『序説』『原論』『要綱』の3冊で紹介した。このブログでも膨大な文献を紹介してきた。さらに、2つの年表を作成した。

主なヘイト・クライム/スピーチ事件裁判

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/06/blog-post_15.html

主なヘイト・クライム/スピーチ関連年表

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/06/blog-post_16.html

市川は、どのような情報に基づいて、どのような基準で、立法事実の有無について判断したのだろうか。なぜ、この点を明示しようとしないのだろうか。論拠を示さなければ、議論にならないのではないか。

市川は長年にわたって表現の自由を呼号してきたが、なぜ「表現の責任」には沈黙を貫くのだろうか。憲法学者は「責任ある表現の自由」を行使するべきではないだろうか。

(完)