Sunday, February 06, 2022

欧州の反ジェンダー運動について02

マリー・ウィテニウスによると、社会権や平等の領域ではEUの権限は制約されているが、EUは各国政府に、ジェンダー平等戦略及びLGBTIQ平等戦略という共通最低基準を通じて影響を与えている。EU反差別の枠組みを設定し、欧州司法裁判所もある。

他方で、EUその他の国際機関は、「腐敗したエリート」とされ反発を受けている。2015年のワルシャワの性教育反対デモでは、ジェンダーとは「ブリュッセル発のエボラ熱だ」と特徴づけられた。EUによる植民地支配というイメージがつくられている。

国家を超えたネットワークがEU議会にも見られる。EU議会2019年選挙で、ジェンダー平等、女性の権利、性教育、同性婚、イスタンブール条約に反対する議員の比率が約30%に達した。EU議会における極右ポピュリスト政党の強化が、欧州評議会にも影響を与え、論争を呼んでいる。

――議論の中心線

――「自然な」ジェンダー役割、伝統的家族イメージ、子どもの保護の称揚

ウィテニウスによると、「ジェンダー」概念の拒絶とともに、反ジェンダー運動は、いくつかの議論のラインを共有している。

同性婚――同性婚及びLGBTIQへの反発。同性婚の導入は、「伝統的」「自然な」母親と父親の役割、2つの性による婚姻のイメージの廃止を目指す政治改革と受け止められている。つまり「家族の廃止」と見做される。

リプロダクティブ健康――歴史的には1990年代に始まったが、堕胎やリプロダクティブ医療が、反ジェンダー運動の中心テーマになっている。堕胎は「死の文化」と見られ、特にカトリック教会が反対している。

学校における性教育――ジェンダー平等の教育テーマは、特に強く攻撃されている。反ジェンダー運動は、無辜の子どもが被害を受けているという。2つの性の存在が「自然な事実」であるとされ、過剰な性教育は拒否される。

民主的権利――この文脈で「ジェンダー・イデオロギー」は政治プロジェクトとなる。「腐敗したエリート」が「ジェンダー・イデオロギー」を押し付けようとしており、新しい全体主義であると批判される。

こうして恐怖と怒りが動員される。「ジェンダー・イデオロギー」は秩序(ジェンダー役割、家族)への脅威とされる。「伝統的」家族、ジェンダーの「自然な」役割が子どもの保護と言う文脈に転換され、宗教的保守的意識に結び付けられる。

――欧州における反ジェンダー運動の波

――イスタンブール条約に反対する「ジェンダーへの戦争」

ウィテニウスによると、反ジェンダー運動の中にイスタンブール条約への反対がある。イスタンブール条約は2011年にイスタンブールで採択され、2014年に発効した。女性に対する暴力とDVを予防し闘う国際的な法的拘束力のある文書である。条約が採用した暴力概念は包括的で広範であり、すべての暴力を含む。条約によると女性に対する暴力とDVは人権侵害である。暴力は歴史的に形成された男女の不平等な権力関係の表現であり、構造的差別の帰結である。条約は「ジェンダー」を社会的に形成された役割、行動、活動、特徴付けであって、女性と男性について社会が適切であるとみなしているものである。

LGBTIQの人の権利はこれまで国際法や国内法で十分認められてこなかった。イスタンブール条約でも構造的に認知されているわけではないが、条約の履行に際して、各国にはジェンダー・アイデンティティに基づいて暴力を受ける人を差別してはならない義務がある。この点で、欧州評議会はLBT女性の暴力から自由に生きる権利を保護する措置が必要となる。G男性も同様であると言える。

ブルガリアは2016年にイスタンブール条約に署名したが、憲法裁判所がイスタンブール条約は憲法違反だと判断した。社会的構築としてのジェンダーと言う理解は、憲法違反であり、憲法は男女両性を定めているという。

ポーランドは2015年にイスタンブール条約を批准したが、議会内で批准撤回を求める運動が続いている。2021年3月30日、「家族にYES、ジェンダーにNO」法案が議会で採択された。ポーランド政府は、イスタンブール条約は宗教を尊重せず、「ジェンダー・イデオロギー」を促進していると主張している。

スロヴァキアは、2011年にイスタンブール条約に署名したが、2019年、議会は批准しないと決定した。カトリック教会などの反対勢力は、イスタンブール条約は「ジェンダー・イデオロギー」を宣伝すると批判している。

ハンガリーは2014年にイスタンブール条約に署名したが、2020年、議会は、政府に批准しないように求める決定をした。ジェンダー及びジェンダーに基づく暴力の定義が、ハンガリーの文化、法律、伝統、国家の価値を危険にさらすとしている。

トルコは2011年にイスタンブール条約に署名したが、10年後、エルドガン首相は2021年7月1日、撤回命令を出した。

Saturday, February 05, 2022

欧州の反ジェンダー運動について01

欧州社会政治発展監視機関のニュース2021年2号は「ジェンダーにNO、正確には何にYESなのか?――欧州反ジェンダー運動の内情」という特集記事を掲載している。以下、簡潔に紹介する。

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構成

1 編者から

2 基礎

(1)序文

(2)担い手と議論

2 スポットライト

(1)国家を超えた戦略的な財政構造

(2)欧州における反トランス攻撃への応答

(3)ジェンダーに基づくサイバー暴力

出版情報

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1 編者から

性的及びリプロダクティブ・ヘルスと権利、及びLGBTIQの人権について、国際的に認められてきた規範に対する逆行、組織的な公然のバックラッシュが、現在、欧州の広範な地域で問題となっている。

2021年3月30日、ポーランド議会構成員たちが、イスタンブール条約(女性に対する暴力及びDVを予防し闘う欧州評議会条約)からポーランドが脱退し、家族の権利条約を起草しようという法案を通過させた。「家族にYES、ジェンダーにNO」と命名されたポーランド法は、欧州で国家を超えて組織されている反ジェンダー運動の中心教義を反映している。イスタンブール条約は、「ジェンダー・イデオロギー」に対する動員の要因となっている。「家族にYES」は、「女性/母親」と「男性/父親」が二極であるという家族の伝統的イメージ又は「自然な」イメージに言及している。子どもの福利、家族の伝統的理解と「自然な」秩序が解体の危機にあると喧伝される。「ジェンダーにNO」は、統合要素であり、社会的に構成されたジェンダー役割という考えを拒絶し、「ジェンダー・イデオロギー」というお化けに反対する諸要因を結び付けている。

このニュースでは、「正確には何にNOなのか?」という問いを提示し、欧州における反ジェンダー運動の出現、その主張、担い手を示す。3つの領域に着目する。反ジェンダー運動の財政構造、反トランス攻撃の増加、ジェンダーに基づくサイバー暴力である。

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2 基礎

(1) 序文

――欧州における国境を越えた反ジェンダー運動

*執筆者はマリー・ウィテニウス(欧州社会政治発展監視機関の研究者)

右翼ポピュリストと反フェミニスト運動は、ジェンダー平等と性的及びリプロダクティブ健康と権利に反対して、近年、欧州各地で強力になりつつある。この強化は、国境を越えて組織化され資金を得た独立の反ジェンダー運動となっており、女性の権利、LGBTIQの人々の権利、及び市民社会を攻撃している。これは各国レベルではなく、欧州レベルで起きており、国家を超えてEUの基礎を掘り崩そうとし、欧州レベルで成立しているコンセンサスを覆そうとしている。反ジェンダー運動は、「ジェンダー・イデオロギー」という共通のお化け概念に結び付けて、さまざまな方法で人権の基礎を攻撃している。

以下では「ジェンダー・イデオロギー」という用語への入門とし、反ジェンダー運動の登場と中心線を示す。さらに、EUに対するこの運動のアンビバレントな関係を論じる。イスタンブール条約は、この運動がいかに強化されてきたかを示すからである。

――共通の敵のためのプロジェクション・スクリーンとしての「ジェンダー・イデオロギー」

反ジェンダー運動の担い手は、その動機においても、議論の重点においても、制度化の程度においても、おおいに多様である。欧州における反ジェンダー運動は、国も歴史も社会的にも異なるが、共通の敵である「ジェンダー・イデオロギー」に対抗する強力なネットワークとなっている。「ジェンダー」概念に反対するために、反ジェンダー主義、反ジェンダー戦争、反ジェンダー運動などの言葉が用いられる。言葉はさまざまだが、国境を越えてともに闘っているというコンセンサスがある。

「ジェンダー・イデオロギー」との闘いは、運動内部では多様な政治目的の共通のテーマである。レイシズム、反ユダヤ主義、ホモフォビア、トランスフォビア、民族主義、反エリート主義につながる。共通の敵ゆえに、極右集団、ポピュリスト政党、キリスト教原理主義、ブルジョア保守主義、ネオリべが一つにまとまる。

ジェンダー平等政策と性的リプロダクティブ健康と権利への組織的反対は、欧州社会における新しい現象ではない。1990年代以来、保守勢力、カトリック教会、右翼ポピュリストがリードしてきた。しかし、社会の広範な層の政治的動員は最近のことである。

反ジェンダー・キャンペーンは2000年代半ばにスペイン、クロアチア、イタリア、スロヴェニアで登場し、同性婚の導入に反対し、性教育に反対した。2012年のフランスの同性婚導入法への反対集会には12万人以上が参加した。これが各地に影響を与え、ドイツ、イタリア、ポーランド、ロシア、スロヴァキアで広がった。LGBTIQの人への攻撃がなされるようになり、ジェンダー平等は家族の廃止になるという言説になっていく。

 

Friday, February 04, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(190)根本猛への応答e

根本猛「差別表現規制をめぐるアメリカ法の潮流:ブラック判決を中心に」『静岡法務雑誌』10巻(2018年)

 

 最後に、差別の禁止とヘイト・スピーチの禁止について見ておきたい。基本的観点は民主主義であり、国家の意義と目的、憲法の意義と目的である。

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 根本は私の見解を次のように批判する。

「さらに前田朗は、ヘイトスピーチも含めて表現の自由の規制には「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限られる」とする憲法学通説を引用し、直截にアメリカ法からの離脱を提唱する。」(根本論文73~74頁)

「ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。

わが国におけるヘイトスピーチ規制の急先鋒とみられる論者は、厳格審査基準に合格するヘイトスピーチ規制では不十分で、わいせつ表現や名誉毀損などと同様、ヘイトスピーチという憲法の保護外の表現と言うカテゴリカルな規制を求めているように見える。あるいは表現の自由について、直截にアメリカ法からの離脱を主張する。

まさに駒村圭吾がいう、憎悪表現や差別表現はいけないというなら表現の自由の背景には14条の趣旨を反映すべしというような『新たな憲法論』が必要ということになる。もちろん駒村はそれに否定的で、不快だから、傷つくからという言葉狩りにつながると懸念している。」(以上、根本論文74頁)

以上が根本による私への批判である。

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 根本論文の表題には「差別表現規制」という言葉が用いられている。表現の自由とヘイト・スピーチ規制の問題を扱っているのだから妥当な表題であるし、「憲法学通説」「憲法学主流」は数十年にわたって「差別表現規制」を論じてきた。それはそれで結構なことだが、憲法学通説・主流の、そして根本の最大の特徴は「差別規制」について一切言及しないことである。ヘイト・スピーチ規制は、国際人権法においても諸外国の法制においても、まず何よりも差別規制の問題である。「差別表現」は「差別」であり、しかも「差別助長」にもなる。

第1に、差別の禁止であるが、いくつもの国で差別犯罪が制定されている。そこにはいろんなパターンがあるが、①公務員による差別的取り扱いを犯罪とする場合、②暴力等を用いた差別を犯罪とする場合(ヘイト・クライム)、③差別煽動を犯罪とする場合(ヘイト・スピーチ)が主なパターンである。

人種差別撤廃条約は、①第2条で差別の禁止のための諸措置を定め、③第4条でヘイト・スピーチ規制を定める。②のヘイト・クライムについて直接この言葉は用いていないが、第2条及び第4条が関連規定と見做されている。人種差別撤廃委員会の各国への韓国では「ヘイト・クライムとヘイト・スピーチ」という項目が示されることが多い。

第2に、ヘイトと差別の禁止の延長上には、国際人道法上の犯罪がある。①集団の全部又は一部を破壊することを意図したジェノサイド、②広範で組織的な攻撃として行われた差別・迫害・殺人を裁く人道に対する罪である。ヘイト・クライムとヘイト・スピーチの議論では、国際的に、「ヘイトを放置しておくと暴力につながり、極端な場合にジェノサイドや人道に対する罪につながりかねない」という文脈で語られる。ナチス・ドイツのユダヤ人差別が虐殺につながり、関東大震災時の差別流言が朝鮮人虐殺につながり、ルワンダにおけるラジオ放送によるツチ人差別がジェノサイドにつながったように、ヘイト・スピーチ、ヘイト・クライム、ジェノサイド、人道に対する罪は、いずれも差別犯罪である。

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ところが、根本は差別規制に言及しない。おそらく、「ヘイト・スピーチ規制と表現の自由の関係を論じているのであって、主題以外のことに言及していないのはやむを得ないし、言及していないことを理由に批判されるいわれはない」と考えているのかもしれない。

しかし、差別表現はそれだけで存在する訳ではない。差別的処遇や差別的法律があり、その延長上で、あるいはそれに伴って差別表現が登場する。あるいは、差別表現がさらなる差別を助長する。差別表現が差別を強化する。ヘイト・スピーチは差別の煽動であり、宣伝であり、現実の差別行為の誘因となるから対処が必要なのだ。差別問題への対処抜きに差別表現だけを論じることはできない。「差別表現」は「差別」の一種である。

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他方で、根本は次のように述べる。

「まさに駒村圭吾がいう、憎悪表現や差別表現はいけないというなら表現の自由の背景には14条の趣旨を反映すべしというような『新たな憲法論』が必要ということになる。もちろん駒村はそれに否定的で、不快だから、傷つくからという言葉狩りにつながると懸念している。」

憲法14条の法の下の平等と差別の禁止の趣旨を反映させるべしという主張に対して、あからさまに敵意を表明する。

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残念ながら世界は差別に満ちている。人種・民族差別があれば、宗教差別があり、性差別があり、世系・カースト・部落差別があり、LGBT差別がある。人間はあらゆる差異を見つけ出して差別せずにいられないのかと慨嘆したくなるほどの不条理が世界を覆っている。

だが、世界は反差別の思想と運動を鍛えてきた。国際人権法は非差別を原則とし、国際人権規約も人種差別撤廃条約も女性差別撤廃条約も障害者権利条約も、非差別、法の下の平等を実現するための実体規範と手続規範を用意し、その履行のために国際人権機関と国内人権機関が発達してきた。

翻って近代法を考察しても、自由・平等・連帯を掲げた当初から、多いに制約はあったものの、近代法思想は自由と平等を目的として掲げてきた。男性市民中心だった法規範は、女性や子どもや外国人の人権を内部に取り込むようになってきた。

それは何よりもまず、自由や平等の観念が発展し、人格権が確立してきたことによる。自由と平等が内在していなければ、人格権概念自体が崩壊してしまう、そのような概念と理解される必要がある。

人格権だけではない。同時に重要なのは民主主義概念である。民主主義概念自体は多様かつ多層的であり、統治システムを示す場合にも用いられるし、手続き的民主主義として理解される場合もある。いすれにせよ、他者の社会参加を否定すること、特定の他者を排除することが民主主義の否定に通じることは明瞭である。「民主主義とレイシズムは両立しない」――ここ数年、国連人権理事会で数回開催されたシンポジウムのテーゼである。レイシズムを放置・容認しておくと民主主義が成立しない。

人格権という観点からも、民主主義という観点からも、法の下の平等と差別の禁止は必須命題となる。現代の反差別の思想に準拠すれば、レイシズムの典型的表現であるヘイト・スピーチを放置すれば民主主義そのものが損なわれることは明らかである。それゆえヘイト・スピーチの規制が求められる。

表現の自由も同様である。表現の自由は、個人の人格権に由来するとともに、民主主義の基礎である。表現の自由のない社会では、人格権は抑圧され、民主主義も窒息させられる。

それゆえ、人格権と民主主義の両方の観点から、差別の禁止と表現の自由の保障の両立のための法理論を構築しなければならない。差別の禁止とヘイト・スピーチの規制は矛盾しない。むしろ相互に補完し合う。ヘイト・スピーチを規制し、表現の自由と責任を貫徹すること、それが現代法の主要命題でなければならない。現代国家は少なくともそのタテマエは、人間の尊厳を守るために存立しているのではないだろうか。現代憲法は、民主主義を確立し、人間の尊厳を擁護し、人格権を保障し、表現の自由と責任を要請するのではないだろうか。私が「表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制する」と主張してきたのは、こうした考え方である。

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根本は人格権について、民主主義についてどのように考えるのだろう。「◯◯人はゴキブリだ。◯◯人を殺せ。」と唱えるヘイト・スピーチを擁護して、人格権を保障できるのだろうか。特定の集団を社会から排除して、民主主義が成立するのだろうか。

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国際社会は、民主主義と人間の尊厳を守り、人格権を守るため、表現の自由と責任を規律する努力を積み重ねてきた。国際自由権規約第20条と人種差別撤廃条約第4条、国連ラバト行動計画、人種差別撤廃委員会一般的勧告35号、国連ヘイト・スピーチ戦略、欧州人権裁判所判決、国連人権理事会普遍的定期審査のいずれも、差別の禁止、ヘイト・スピーチの禁止のための基準作りを積み重ねてきた。

それゆえ世界の150か国でヘイト・スピーチ禁止法がつくられている。つまり、150か国の立法者が、人種・民族差別の抑止のために、よりよいヘイト・スピーチ法の制定を模索してきた(必ずしも十分ではないが)。150か国の裁判官がヘイト・スピーチの法適用を実践してきた(表現の自由と非差別原則を十分調整できたと言えない場合もあるが)。150か国の憲法学者と刑法学者がヘイト・スピーチ抑止のためのより良い法解釈を追求してきた。

これに対して、根本は次のように茶化す。

「ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。」

この文章は何を意味するだろうか。

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ユダヤ人迫害や、イスラモフォビアや、難民排斥や、過激なナショナリズムや、テロに至る過激主義や、白人至上主義や、世界各地のジェノサイドや人道に対する罪との闘いのために、国連人権理事会の特別報告者や、人種差別撤廃委員や、国連ジェノサイド特別顧問たちがヘイト・スピーチ規制の国際人権法を彫琢し、精錬してきた。

日本では在日朝鮮人、中国人、アイヌ民族、琉球民族をはじめとして、多くのマイノリティが差別に喘ぎ、ヘイト・スピーチの標的とされてきた。

差別被害を訴える声に対して、根本は次のように嗤う。

「ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。」

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私の尊敬する研究者たち、たとえばフランク・ラ・リュ(国連人権理事会の表現の自由特別報告者)、アスマ・ジャハンギル(国連人権理事会・宗教の自由特別報告者、国際法律家委員会委員)、アブデルファタ・アモル(国際自由権規約委員会委員)、モーゲンス・シュミット(ユネスコ表現の自由部局事務局次長)、パトリス・マイヤー・ビシュ(フリブール大学倫理人権研究所所長)、ドゥドゥ・ディエン(国連人権理事会元・人種主義人種差別特別報告者、元国際法律家委員会事務局長)、パトリック・ソーンベリ(国連人種差別撤廃委員会委員、キール大学教授)、ナタン・レルナー(テル・アヴィヴ大学教授)、ルイ=レオン・クリスチャン(ルーヴァン・カソリック大学教授)、ハイナー・ビーレフェルト(国連人権理事会宗教の自由特別報告者)、ゾンケ・マジョディナ(国際自由権規約委員会委員)、ファン・ヨンガン(国連人種差別撤廃員会委員)、エドゥアルド・ベルトーニ(パレルモ大学教授、元米州人権委員会・表現の自由特別報告者)、イオン・ディアコヌ(国連人種差別撤廃委員)が、人種主義ヘイト・スピーチ規制法の解釈をめぐって論戦を闘わせてきた。人種主義が現代世界の深刻な病理となっているからだ。

これに対して、根本は次のように唾を吐く。

「ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。」

どんなに愚劣なことを書いても、日本語だから、世界には知られないので構わないと考えているのだろうか。

 以上。

Thursday, February 03, 2022

反核・平和のエッセイ37編――あるいは疾走する後期高齢者

大久保賢一『「核の時代」と戦争を終わらせるために――「人影の石」を恐れる父から娘への伝言』(学習の友社)

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第1部 「核兵器も戦争もない世界」を求めて(17話)

第2部 核兵器に依存し戦争を計画する者たちへの批判(11話)

第3部 何人かの知識人たちへの共感と注文(9話)

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日本反核法律家協会会長、日弁連憲法問題対策本部核兵器廃絶PT座長、NPO法人ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会理事、核兵器廃絶日本NGO連絡会共同代表を務める大久保弁護士の新刊である。

つい先般、『「核兵器も戦争もない世界」を創る提案』(学習の友社)、及び『「核の時代」と憲法9条』(日本評論社)を出したと思ったら、またまた本書である。読むのが追いつかない速筆だ。スピード違反の疑いがある。

なにしろ、大久保は諸団体のニュース・通信・会報などに次々と論文や声明やエッセイを書き、それでも足りないとばかりに書き綴ったエッセイをEメールで友人知人に続々と送り付ける。そのなかから厳選されたエッセイを著書としてまとめていく。

前著は比較的理論的で専門的な記述が多かったのに対して、本書は「娘への伝言」とあるように一般の読者向けに平易な文章で語りかけている。

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第1部と第2部は平易な言葉使いで、核のない時代への願い、思いを綴る。

第1部では、反核平和の短歌や俳句、沖縄全戦没者追悼式における平和の詩、あるいはスリーベテランズたちの語り、青年・学生たちの取り組みを紹介しながら、核のない時代を創るための条件づくりを整備する。

第2部では防衛大綱の欺瞞、NPT再検討会議の延期、バイデン米政権の政策などを取り上げて批判的に論評する。岸田文雄著『核兵器のない世界へ――勇気ある平和国家の志』が、その表題に反して、核兵器恒久化を意味する倒錯本となっていることを厳しく批判する。

第3部はやや理論的な文章が収められている。坂田雅裕、長谷部恭男、伊勢崎賢治、加藤典洋、日本軍縮学会声明、藤原帰一、鳩山友紀夫、ウィリアム・ペリーの見解に学びつつ、論点を深める努力を続ける。

1冊で3度おいしい本である。

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第1の特徴は批判する前に相手に学ぶ姿勢である。聞きたいことだけを聞きながら「聞く力」を自慢する首相と違って、大久保は相手の主張に耳を傾け、賛同できるところと賛同できないところを区分けしつつ、議論を発展させる工夫を重ねる。

第2の特徴は視野の広さである。反核平和という問題領域だけに、当然のことながら、核兵器禁止条約やNPT会議のように国連レベルの動き、米中、米朝などの軍事外交交渉、沖縄の基地反対闘争や広島の核廃絶運動はもとより、ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会の活動など多様で多彩な観点から現実に向き合う。

第3の特徴は若さである。1947年生まれ、団塊の世代にしてついに後期高齢者の仲間入りをした大久保だが、勉強意欲が旺盛で、次々と関連書籍を読み漁り、そこに論敵を見つけ出す。ストレートに批判する前に相手に学び、共有できる認識を確認しながらも、相手を乗り越える課題を自らに課す。反核平和の願いという原点を絶対に譲らない「頑なさ」も、頑迷なのではなく、柔軟にして常に発展を模索する姿勢を忘れない。先達に学び、同世代と侃々諤々の激論を闘わせてきた大久保が、いま、自らの「若さ」を最大の武器に、一世代二世代後の若者たちの活動にも学びながら疾走する様は、感動的ですらある。若者たちはこの爺さんをどう見ているのだろうか、ちょっと知りたいところでは、ある。

ヘイト・スピーチ研究文献(190)根本猛への応答d

根本猛「差別表現規制をめぐるアメリカ法の潮流:ブラック判決を中心に」『静岡法務雑誌』10巻(2018年)

 

根本は「憲法学の主流」は「規制反対論」であるとして市川正人、榎透、齋藤愛の見解を紹介する。「規制消極論」として小谷順子の見解に触れた上で、「規制積極論」として師岡康子と私の見解を紹介する。

 「規制反対論」を根本は「思想の自由市場」論を基本に理解している。根本は市川正人の「思想の自由市場論」を16行にわたって引用する(根本論文72頁)。根本自身によるコメントは付していないが、全体の流れから、根本が市川説に賛同して、肯定的に引用していることが分かる。次に根本は榎透の「思想の自由市場論」を5行にわたって引用する(根本論文72頁)。さらに根本は齋藤愛の「思想の自由市場」論を6行ほど引用する(根本論文73頁)。根本自身による「思想の自由市場」論は展開されていないが、市川、榎、齋藤の所説に賛同しているので、引用で十分と考えたのであろう。

 根本に限らず、表現の自由について思想の自由市場論を持ち出し、これを根拠にしてヘイト・スピーチ刑事規制に反対する論者は少なくない。

 これは驚くべきことではないだろうか。なぜなら、思想の自由市場論は憲法解釈の基準として持ち込めるような内実を備えているとはおよそ考えられないからである。思想の自由市場論への疑問は前田『原論』232~235頁、及び『要綱』72~74頁に書いておいた。

「思想の自由市場論には根本的に疑問がある。思想の自由市場論は憲法原理でもなければ社会科学理論でもない。一度も検証されたことのない仮説であり、単なる比喩的表現に過ぎない。」(『要綱』72頁)

 第1に思想の自由市場を経済市場と類比する根拠や具体的内容が明らかでない。思想の自由市場論の比喩の正当性自体疑わしい。経済市場には貨幣という「共通言語」があるが、思想の自由市場には「共通言語」が存在しない。

 第2に自由市場論の成立には市場参入者の同質性と平等性が保障されなければならない。この前提を掘り崩すヘイト・スピーチに思想の自由市場論を適用することはできない。人種・民族差別が問題となっている領域で、マイノリティ(他者)の排除を容認しながら、マイノリティがマジョリティに変わる可能性があるとなぜ言えるのか。

 第3にタイムスパンが明示されない。3カ月の話なのか、1年の話なのか、それとも100年の話なのか。万が一仮に長期的には思想の自由市場論が当てはまる場合があるとしても一般的に適用できるとは限らない。

 第4に「悪貨は良貨を駆逐する」という常識を考慮する必要がある。思想の自由市場論は質の悪い喩え話にすぎない。あるいは「思想の自由市場論という悪貨が良貨を駆逐してきた」。

 第5に市場に参入するつもりがない被害者をなぜ無理やり引きずり出して、参入を強制しなければならないのか。加害者が一方的に押し掛けて罵声を浴びせる事例で、被害者に対抗言論を強制する論者はヘイト・スピーチの「共犯」ではないだろうか。

 「結論として、①思想の自由市場論は検証されたことのない仮説であり、あいまいな比喩的表現を超えるものではない。②思想の自由市場論が仮に検証されてもヘイト・スピーチに適用する妥当性が明らかにされていない。③思想の自由市場論がアメリカにおいて採用されているとしても、日本国憲法が採用しているという論証がなされたことはない。④思想の自由市場論をヘイト・スピーチ論に持ち出すことは、被害者を無理やり引きずり出すことであり、他者の主体性を無視する暴力である。」(『要綱』74頁)

 思想の自由市場論は大雑把なスローガンにすぎない。スローガンはスローガンとして大切だが、何かを論証するわけではない。単なるスローガンを法解釈に持ち込んで済ませる粗雑な議論は不適切であろう。「思想の自由市場論という悪貨が良貨を駆逐してきた」歴史を終わらせるべきではないか。

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さらに次の点も指摘しておこう。

ヘイト・スピーチ刑事規制で問題となっているのは、他者をその人種・民族・言語等を動機として差別し、排除し、貶める表現行為である。典型例が在特会による大久保デモや川崎デモである。ここで問われているのは、単に「思想」ではなく「他者を排除する表現行為」である。攻撃対象の居住地域に押しかけて差別言説をまき散らす表現行為である。思想の自由市場論などと言葉をごまかすのはやめて、正しく「表現行為の自由市場」論と呼ぶべきであり、そうすればたちどころにその不当性が明らかになるはずだ。実態を見えにくくするために「思想」の自由市場論と言い換えるレッテル詐欺の疑いを否定できない。

 こうした疑問に根本はどのように答えるだろうか。根本は、なぜ、どのようにして思想の自由市場論者になったのか教えてもらえると幸いである。

 なお、憲法学が表現規制について「萎縮効果」を懸念するのは理解できる。この点については差別の禁止との比較衡量が検討されるべきであり、次回に回す。

Tuesday, February 01, 2022

非国民がやってきた! 012

大久保哲「日本国憲法と皇室典範――西洋近代法思想と日本人の心性の乖離」『宮崎産業経営大学研究紀要』第32巻第1・2号(2022年)

 

大久保は前に天皇制に対する批判と皇室への畏敬の共存する自己を反省的に表明したことがある(「私の天皇制」『宮崎産業経営大学法学論集』第24巻第1・2号、2016年)。当時、私は「よくある、内なる天皇制の一例」と受け止めていたが、今回、大久保は法理論のレベルで現実を批判的に検証するとともに、「私の天皇制」の根源に向き合う努力を始めた。

大久保のテーゼは2つである。

①    「天皇・皇族は美しく静かな古都の京都御所に美しく居てほしいという極めて情緒的な天皇論」。これを川端康成の「美しい日本」に重ねる。

②    「天皇と皇族を、国家の制度の軛から『解放』すべきであるという趣旨の天皇制廃止論」。

そして大久保は、議論の端緒として皇室典範に着目し「憲法の条文と皇室典範の条文の間に論理的整合性が成り立ちうるか、成り立たないとすれば、なぜ74年間も皇室典範が憲法と並んで存続し得ているのか」と問う。

その答えは論文副題に明示されている「西洋近代法思想と日本人の心性の乖離」に求められるが、だからと言って、大久保は天皇制を西洋近代法思想に引き付け直して再解釈する方策を採用しない。

むしろ逆に、あえて「立場は違えても、中川八洋や小堀桂一郎のような、立場を鮮明にした激烈過激な天皇制主義者、天皇制擁護者の法律家と深く共鳴するものである」と表明して、読者を困惑させる。大久保なりのトリックの伏線である。

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大久保論文の主内容は、日本国憲法第3章の権利規定(思想信条の自由、職業選択の自由、生存権、婚姻の自己決定権等々)に照らして皇室典範の規定を徹底検証することであるが、その内容をここで引用することはしない。皇室典範に人権規定が一切取り入れられていないことは、もとより明らかだからである。

問題は、反人権の極致である皇室典範が、なぜ日本国憲法の下でこれほどの生命力を持ってきたのか、である。

大久保は近代法における基本的人権の原理を概説し、日本国憲法と皇室典範の「世界」が異なることを再確認した上で、なぜ、多くの日本人は「二つの世界」を受け入れているのか、と問う。

大久保によれば、近代法の精神の世界と日本人の心性の世界には「一見した以上に、簡単には受けることのできない深い乖離」が存在し、後者の「日本的なるもの」と真摯に向き合わなければ、その克服はできないという。

結論は「全ての人間の尊厳を求めて」とまとめられる。法の下の平等や人間の尊厳を重視し、人間の「解放」を望むなら、「天皇と皇族について、法の下の平等の保障、個人としての人間の尊厳の保障なくして、『マージナルな人々』の平等の保障と人間の尊厳の確保はあり得ない。中心部を放置・等閑・温存して、外縁部だけを対象としても解決にはなりえないであろう」という。

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天皇制への分析視角は数多くあるが、憲法論とのかかわりでは、例えば次の5つが重要だろう。いずれも別々ではなく、互いに重なり合うが。

①    歴史的アプローチ:近現代における天皇制が果たした政治経済社会的役割を論じる。

②    主権論的アプローチ:天皇主権から国民主権への転換を総合的に検討する。

③    統治機構論的アプローチ:国家元首から象徴への転換を検討する。

④    人権論的アプローチ(A):天皇制という身分制・性差別制が社会に与える人権侵害の点検。差別の根源としての天皇制論。

⑤    人権論的アプローチ(B):天皇自身が人権を制約されている点に着目する。

大久保は、⑤の人権論的アプローチ(B)に絞り込み、憲法の人権条項から皇室典範をチェックする。それ自体は珍しくないが、大久保は本論において、①~④を徹底して排除し、⑤だけを突き詰めることで、天皇制の矛盾を浮き彫りにする。その矛盾は「日本人の心性」そのものにあるというのだろう。しかも、大久保自身は矛盾を抱えた「日本人の心性」を否認しない。何しろ、「激烈過激な天皇制主義者、天皇制擁護者の法律家と深く共鳴する」と宣言していたのだから。

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イギリスのサンデー誌だっただろうか、1988~89年当時「地獄が裕仁を待っている」と書いたことがある。即位の礼・大嘗祭をめぐって、私たちは違憲訴訟を提起したが、裁判では敗訴に終わった(前田朗『平和のための裁判』水曜社)。

それ以来、平和をめぐって、日米安保をめぐって、主権をめぐって、反差別論の中で、つねに天皇制は議論の対象であったが、昭和から平成へ、そして令和へと至り、女帝論争や皇族の結婚問題がニュースとなってきた。

私は1990年代以後の日本軍性奴隷制をはじめとする戦争犯罪論を展開する中で天皇の戦争犯罪責任、人道に対する罪について論じてきた。最近は日本植民地主義の歴史と構造を解明する努力を続けてきた(前田『要綱』第3章・第4章)。その続きを書いて、植民地主義批判を一歩深めようとしているところで、今春には活字になる見込みだ。

中には地獄まで裕仁を追いかけて行った増田都子もいるが、多くの日本人は天皇をニュースとして消費しているだけかもしれない。

https://maeda-akira.blogspot.com/2015/08/blog-post_18.html

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大久保は「日本人の心性」を論じ、川端康成に言及する。ならば、三島由紀夫の文化としての天皇制論をどうとらえるのだろうか。他方で大江健三郎、そしてもう一方で桐山襲の『パルチザン伝説』をどう読むのだろうか。

https://maeda-akira.blogspot.com/2019/03/blog-post_92.html

文化としての天皇制の批判的解剖は天野恵一がやりつくした感がある。というか、天野と反天連は上記の①~⑤のすべてを論じてきた。逆に鈴木邦男の『愛国の昭和―戦争と死の七十年』や『天皇陛下の味方です 国体としての天皇リベラリズム』がある。

天皇制と日本文化論はもともと「合わせ鏡」のような存在であるから、西洋近代法思想だけでは天皇制を解けないとして「日本人の心性」に及ぶのであれば、さらに論ずべき課題は少なくない。

ヘイト・スピーチ研究文献(190)根本猛への応答c

根本猛「差別表現規制をめぐるアメリカ法の潮流:ブラック判決を中心に」『静岡法務雑誌』10巻(2018年)

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根本は次のように述べる。

「さらに前田朗は、ヘイトスピーチも含めて表現の自由の規制には「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限られる」とする憲法学通説を引用し、直截にアメリカ法からの離脱を提唱する。」(根本論文73~74頁)

「わが国におけるヘイトスピーチ規制の急先鋒とみられる論者は、厳格審査基準に合格するヘイトスピーチ規制では不十分で、わいせつ表現や名誉毀損などと同様、ヘイトスピーチという憲法の保護外の表現というカテゴリカルな規制を求めているように見える。あるいは表現の自由について、直截にアメリカ法からの離脱を主張する。」(根本論文74頁)

これが私への批判として書かれているのは、根本が「表現の自由について議論する場合はアメリカ法の考え方に従わなければならない。アメリカ法からの離脱など許されざる事態である」と信じているからである。

これは「学問」だろうか、「信仰」だろうか。根本に限らず、憲法学者の中には同様の信仰の持ち主が少なくないように思える。表現の自由の大切さを強調するのは理解できるが、その方法には疑問が少なくない。

第1に、日本国憲法の解釈をするのに、日本国憲法第21条に言及することさえしない。条文の引用もしない。

根本が論及するのは、アメリカのRAV判決やブラック判決やブランデンバーグ判決である。その実質的根拠は「周知のとおり、日本国憲法制定以来、わが国の憲法学はアメリカ法の影響の下にある」(根本論文59頁)と示される。これは事実である。

しかし、「憲法学はアメリカ法の影響の下にある」ことが、「憲法がアメリカ憲法と同じである。同じ解釈を採用するべきである」ことになるだろうか。現に表現の自由に関する憲法学多数説は、最高裁判例にあまり(又はほとんど)採用されていないのではないか。70年以上にわたって判例に採用されたことのない独自の理論と言うべきだろう。憲法学は精緻な優れた理論を積み上げてきたかもしれないが、日本の現実と切り結んでいない。独自の理論をいくら唱えても、憲法の条文を書き換えることはできないし、判例に採用される可能性も低くなる一方ではないだろうか。

第2に、表現の自由に関する憲法学多数説は、日本国憲法の体系的合理的解釈を排斥する。それゆえ、憲法前文、第12条、第13条、第14条にも言及しない。

根本は「まさに駒村圭吾がいう、憎悪表現や差別表現はいけないというなら表現の自由の背景には14条の趣旨を反映すべしというような『新たな憲法論』が必要ということになる。もちろん駒村はそれに否定的で、不快だから、傷つくからという言葉狩りにつながると懸念している。」(根本論文74頁)という。

憲法第14条の法の下の平等の「趣旨を反映」させることに明確に敵意を表明する。

第3に、表現の自由に言及するが、表現の「責任」には言及しない。表現の責任を論じるべき日本国憲法第12条は次の通りである。

憲法第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

憲法第21条の表現の自由の行使にも「責任」が伴うのは当然である。ところが、多くの憲法学者の憲法教科書では表現の自由について数十頁の記述がなされているにもかかわらず、「表現の責任」については一切言及がない。憲法教科書を10冊以上チェックしたが、表現の責任という言葉さえ登場しない。

私は長年「表現の自由と責任」を唱えてきた(前田朗『メディアと市民――責任なき表現の自由が社会を破壊する』(彩流社、2018年)。

根本は表現の自由を繰り返す一方で、表現の責任に沈黙するのはなぜなのだろうか。

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日本国憲法の下でヘイト・スピーチについてどのように考えるべきか。私の『序説』『原論』『要綱』の3冊の冒頭「はしがき」の最初の一段落は全て同じである。

「表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを刑事規制する。それが日本国憲法の基本精神に従った正当な解釈である。国際人権法もヘイト・スピーチ規制を要請している。ヘイト・スピーチ処罰は国際社会の常識である――本書は以上の結論の前提となる基礎情報を紹介することを主要な課題とする。」

そして、『要綱』では次のように書いた。

「憲法解釈に当たって重視するべき順序は次のように考えるべきであろう。①日本国憲法(前文及び各条文)、②確立した判例、③日本が批准した国際条約、④慣習国際法。

⑤比較法(諸外国の法制・判例を参照すること)は思考の発展にとって重要であるが、その限度でしかないだろう。法解釈に当たって①②が最重要であり、必要に応じて③④を参照するべきだが、比較法は軽い参考にとどめるべきだ。比較法が③④よりも優先する理由はない。憲法前文は国際協調主義を強く押し出しているうえ、憲法第九七条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と表現して、国際社会が形成・獲得してきた人権の重要性を明示している。その上で憲法第九八条二項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」としている。」(『要綱』121頁)

日本国憲法第21条を解釈する際に参照するべきは、憲法第21条の条文とともに、

①  日本国憲法(前文及び各条文):第12条、第13条、第14条

②  確立した判例

③  日本が批准した国際条約

④  慣習国際法。

以上の順で参照するべきである(ここでは「法源」を論じているわけではない)。

⑤  比較法(諸外国の法制・判例を参照すること)は、その後(論理的に後)である。

ところが、少なからぬ憲法学者がこうは考えない。憲法学者は、次のように考えるようだ。

①  日本国憲法(前文及び各条文)は無視又は軽視する。

②  確立した判例に従わない。

③  日本が批准した国際条約に論及しない。一部の論者は人種差別撤廃条約第4条に言及するが、「日本政府が条約第4条(a)(b)の適用に留保を付した」ことに賛成する。

④  慣習国際法に論及しない。

⑤  比較法のうち、ドイツ法やフランス法その他百数十カ国の法と法学は無視する。一部の論者だけがドイツ法、フランス法、カナダ法の詳細な研究を進めているが。

⑥  比較法のうち、アメリカ法だけを絶対化する。

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 アメリカ憲法の表現の自由と日本国憲法の表現の自由が同じ条文であるのなら、まだわからないでもないが、両者に類似性はない。アメリカ憲法修正第1条と日本国憲法第21条は似ても似つかぬ条文形式である。

日本国憲法第21条と第12条をセットにしてみれば(つまり表現の自由と責任)、日本国憲法の表現の自由の規定上の特徴は欧州諸国の憲法の表現の自由規定に類似する。また国際人権規約(市民的政治的権利に関する国際規約第19条2項と19条3項)と同じ構造を持っている。

さらに興味深いことに、憲法学がアメリカ法を絶対視するのは、表現の自由の時だけである。

「憲法学は憲法第一条の解釈においてアメリカ法を研究しない。同様に憲法第九条の解釈においても、憲法第一〇条、第二五条、第四一条、第六五条、第九二条でもアメリカ法を参照しない。ところが第二一条だけは絶対にアメリカ法だけを参照するべきだと主張する。ブランデンバーグ法理を直接採用するように唱える驚愕の論文が書かれてきた。世界でもまれに見る極端なアメリカ絶対主義であり、属国主義である。」(『要綱』120頁)

 憲法学が方法論について何を考えているのかがよくわかる。体系的な整合性・一貫性を一切考えない点では見事に一貫している。方法も時と気分で自在に変える。「学問」ではなく「信仰」ではないかと疑われてもやむを得ないのではないか。