Thursday, February 03, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(190)根本猛への応答d

根本猛「差別表現規制をめぐるアメリカ法の潮流:ブラック判決を中心に」『静岡法務雑誌』10巻(2018年)

 

根本は「憲法学の主流」は「規制反対論」であるとして市川正人、榎透、齋藤愛の見解を紹介する。「規制消極論」として小谷順子の見解に触れた上で、「規制積極論」として師岡康子と私の見解を紹介する。

 「規制反対論」を根本は「思想の自由市場」論を基本に理解している。根本は市川正人の「思想の自由市場論」を16行にわたって引用する(根本論文72頁)。根本自身によるコメントは付していないが、全体の流れから、根本が市川説に賛同して、肯定的に引用していることが分かる。次に根本は榎透の「思想の自由市場論」を5行にわたって引用する(根本論文72頁)。さらに根本は齋藤愛の「思想の自由市場」論を6行ほど引用する(根本論文73頁)。根本自身による「思想の自由市場」論は展開されていないが、市川、榎、齋藤の所説に賛同しているので、引用で十分と考えたのであろう。

 根本に限らず、表現の自由について思想の自由市場論を持ち出し、これを根拠にしてヘイト・スピーチ刑事規制に反対する論者は少なくない。

 これは驚くべきことではないだろうか。なぜなら、思想の自由市場論は憲法解釈の基準として持ち込めるような内実を備えているとはおよそ考えられないからである。思想の自由市場論への疑問は前田『原論』232235頁、及び『要綱』7274頁に書いておいた。

「思想の自由市場論には根本的に疑問がある。思想の自由市場論は憲法原理でもなければ社会科学理論でもない。一度も検証されたことのない仮説であり、単なる比喩的表現に過ぎない。」(『要綱』72頁)

 第1に思想の自由市場を経済市場と類比する根拠や具体的内容が明らかでない。思想の自由市場論の比喩の正当性自体疑わしい。経済市場には貨幣という「共通言語」があるが、思想の自由市場には「共通言語」が存在しない。

 第2に自由市場論の成立には市場参入者の同質性と平等性が保障されなければならない。この前提を掘り崩すヘイト・スピーチに思想の自由市場論を適用することはできない。人種・民族差別が問題となっている領域で、マイノリティ(他者)の排除を容認しながら、マイノリティがマジョリティに変わる可能性があるとなぜ言えるのか。

 第3にタイムスパンが明示されない。3カ月の話なのか、1年の話なのか、それとも100年の話なのか。万が一仮に長期的には思想の自由市場論が当てはまる場合があるとしても一般的に適用できるとは限らない。

 第4に「悪貨は良貨を駆逐する」という常識を考慮する必要がある。思想の自由市場論は質の悪い喩え話にすぎない。あるいは「思想の自由市場論という悪貨が良貨を駆逐してきた」。

 第5に市場に参入するつもりがない被害者をなぜ無理やり引きずり出して、参入を強制しなければならないのか。加害者が一方的に押し掛けて罵声を浴びせる事例で、被害者に対抗言論を強制する論者はヘイト・スピーチの「共犯」ではないだろうか。

 「結論として、①思想の自由市場論は検証されたことのない仮説であり、あいまいな比喩的表現を超えるものではない。②思想の自由市場論が仮に検証されてもヘイト・スピーチに適用する妥当性が明らかにされていない。③思想の自由市場論がアメリカにおいて採用されているとしても、日本国憲法が採用しているという論証がなされたことはない。④思想の自由市場論をヘイト・スピーチ論に持ち出すことは、被害者を無理やり引きずり出すことであり、他者の主体性を無視する暴力である。」(『要綱』74頁)

 思想の自由市場論は大雑把なスローガンにすぎない。スローガンはスローガンとして大切だが、何かを論証するわけではない。単なるスローガンを法解釈に持ち込んで済ませる粗雑な議論は不適切であろう。「思想の自由市場論という悪貨が良貨を駆逐してきた」歴史を終わらせるべきではないか。

さらに次の点も指摘しておこう。

ヘイト・スピーチ刑事規制で問題となっているのは、他者をその人種・民族・言語等を動機として差別し、排除し、貶める表現行為である。典型例が在特会による大久保デモや川崎デモである。ここで問われているのは、単に「思想」ではなく「他者を排除する表現行為」である。攻撃対象の居住地域に押しかけて差別言説をまき散らす表現行為である。思想の自由市場論などと言葉をごまかすのはやめて、正しく「表現行為の自由市場」論と呼ぶべきであり、そうすればたちどころにその不当性が明らかになるはずだ。実態を見えにくくするために「思想」の自由市場論と言い換えるレッテル詐欺の疑いを否定できない。

 こうした疑問に根本はどのように答えるだろうか。根本は、なぜ、どのようにして思想の自由市場論者になったのか教えてもらえると幸いである。

 なお、憲法学が表現規制について「萎縮効果」を懸念するのは理解できる。この点については差別の禁止との比較衡量が検討されるべきであり、次回に回す。