Friday, February 04, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(190)根本猛への応答e

根本猛「差別表現規制をめぐるアメリカ法の潮流:ブラック判決を中心に」『静岡法務雑誌』10巻(2018年)

 

 最後に、差別の禁止とヘイト・スピーチの禁止について見ておきたい。基本的観点は民主主義であり、国家の意義と目的、憲法の意義と目的である。

 根本は私の見解を次のように批判する。

「さらに前田朗は、ヘイトスピーチも含めて表現の自由の規制には「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限られる」とする憲法学通説を引用し、直截にアメリカ法からの離脱を提唱する。」(根本論文7374頁)

「ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。

わが国におけるヘイトスピーチ規制の急先鋒とみられる論者は、厳格審査基準に合格するヘイトスピーチ規制では不十分で、わいせつ表現や名誉毀損などと同様、ヘイトスピーチという憲法の保護外の表現と言うカテゴリカルな規制を求めているように見える。あるいは表現の自由について、直截にアメリカ法からの離脱を主張する。

まさに駒村圭吾がいう、憎悪表現や差別表現はいけないというなら表現の自由の背景には14条の趣旨を反映すべしというような『新たな憲法論』が必要ということになる。もちろん駒村はそれに否定的で、不快だから、傷つくからという言葉狩りにつながると懸念している。」(以上、根本論文74頁)

以上が根本による私への批判である。

 根本論文の表題には「差別表現規制」という言葉が用いられている。表現の自由とヘイト・スピーチ規制の問題を扱っているのだから妥当な表題であるし、「憲法学通説」「憲法学主流」は数十年にわたって「差別表現規制」を論じてきた。それはそれで結構なことだが、憲法学通説・主流の、そして根本の最大の特徴は「差別規制」について一切言及しないことである。ヘイト・スピーチ規制は、国際人権法においても諸外国の法制においても、まず何よりも差別規制の問題である。「差別表現」は「差別」であり、しかも「差別助長」にもなる。

1に、差別の禁止であるが、いくつもの国で差別犯罪が制定されている。そこにはいろんなパターンがあるが、①公務員による差別的取り扱いを犯罪とする場合、②暴力等を用いた差別を犯罪とする場合(ヘイト・クライム)、③差別煽動を犯罪とする場合(ヘイト・スピーチ)が主なパターンである。

人種差別撤廃条約は、①第2条で差別の禁止のための諸措置を定め、③第4条でヘイト・スピーチ規制を定める。②のヘイト・クライムについて直接この言葉は用いていないが、第2条及び第4条が関連規定と見做されている。人種差別撤廃委員会の各国への韓国では「ヘイト・クライムとヘイト・スピーチ」という項目が示されることが多い。

2に、ヘイトと差別の禁止の延長上には、国際人道法上の犯罪がある。①集団の全部又は一部を破壊することを意図したジェノサイド、②広範で組織的な攻撃として行われた差別・迫害・殺人を裁く人道に対する罪である。ヘイト・クライムとヘイト・スピーチの議論では、国際的に、「ヘイトを放置しておくと暴力につながり、極端な場合にジェノサイドや人道に対する罪につながりかねない」という文脈で語られる。ナチス・ドイツのユダヤ人差別が虐殺につながり、関東大震災時の差別流言が朝鮮人虐殺につながり、ルワンダにおけるラジオ放送によるツチ人差別がジェノサイドにつながったように、ヘイト・スピーチ、ヘイト・クライム、ジェノサイド、人道に対する罪は、いずれも差別犯罪である。

ところが、根本は差別規制に言及しない。おそらく、「ヘイト・スピーチ規制と表現の自由の関係を論じているのであって、主題以外のことに言及していないのはやむを得ないし、言及していないことを理由に批判されるいわれはない」と考えているのかもしれない。

しかし、差別表現はそれだけで存在する訳ではない。差別的処遇や差別的法律があり、その延長上で、あるいはそれに伴って差別表現が登場する。あるいは、差別表現がさらなる差別を助長する。差別表現が差別を強化する。ヘイト・スピーチは差別の煽動であり、宣伝であり、現実の差別行為の誘因となるから対処が必要なのだ。差別問題への対処抜きに差別表現だけを論じることはできない。「差別表現」は「差別」の一種である。

他方で、根本は次のように述べる。

「まさに駒村圭吾がいう、憎悪表現や差別表現はいけないというなら表現の自由の背景には14条の趣旨を反映すべしというような『新たな憲法論』が必要ということになる。もちろん駒村はそれに否定的で、不快だから、傷つくからという言葉狩りにつながると懸念している。」

憲法14条の法の下の平等と差別の禁止の趣旨を反映させるべしという主張に対して、あからさまに敵意を表明する。

残念ながら世界は差別に満ちている。人種・民族差別があれば、宗教差別があり、性差別があり、世系・カースト・部落差別があり、LGBT差別がある。人間はあらゆる差異を見つけ出して差別せずにいられないのかと慨嘆したくなるほどの不条理が世界を覆っている。

だが、世界は反差別の思想と運動を鍛えてきた。国際人権法は非差別を原則とし、国際人権規約も人種差別撤廃条約も女性差別撤廃条約も障害者権利条約も、非差別、法の下の平等を実現するための実体規範と手続規範を用意し、その履行のために国際人権機関と国内人権機関が発達してきた。

翻って近代法を考察しても、自由・平等・連帯を掲げた当初から、多いに制約はあったものの、近代法思想は自由と平等を目的として掲げてきた。男性市民中心だった法規範は、女性や子どもや外国人の人権を内部に取り込むようになってきた。

それは何よりもまず、自由や平等の観念が発展し、人格権が確立してきたことによる。自由と平等が内在していなければ、人格権概念自体が崩壊してしまう、そのような概念と理解される必要がある。

人格権だけではない。同時に重要なのは民主主義概念である。民主主義概念自体は多様かつ多層的であり、統治システムを示す場合にも用いられるし、手続き的民主主義として理解される場合もある。いすれにせよ、他者の社会参加を否定すること、特定の他者を排除することが民主主義の否定に通じることは明瞭である。「民主主義とレイシズムは両立しない」――ここ数年、国連人権理事会で数回開催されたシンポジウムのテーゼである。レイシズムを放置・容認しておくと民主主義が成立しない。

人格権という観点からも、民主主義という観点からも、法の下の平等と差別の禁止は必須命題となる。現代の反差別の思想に準拠すれば、レイシズムの典型的表現であるヘイト・スピーチを放置すれば民主主義そのものが損なわれることは明らかである。それゆえヘイト・スピーチの規制が求められる。

表現の自由も同様である。表現の自由は、個人の人格権に由来するとともに、民主主義の基礎である。表現の自由のない社会では、人格権は抑圧され、民主主義も窒息させられる。

それゆえ、人格権と民主主義の両方の観点から、差別の禁止と表現の自由の保障の両立のための法理論を構築しなければならない。差別の禁止とヘイト・スピーチの規制は矛盾しない。むしろ相互に補完し合う。ヘイト・スピーチを規制し、表現の自由と責任を貫徹すること、それが現代法の主要命題でなければならない。現代国家は少なくともそのタテマエは、人間の尊厳を守るために存立しているのではないだろうか。現代憲法は、民主主義を確立し、人間の尊厳を擁護し、人格権を保障し、表現の自由と責任を要請するのではないだろうか。私が「表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制する」と主張してきたのは、こうした考え方である。

根本は人格権について、民主主義についてどのように考えるのだろう。「◯◯人はゴキブリだ。◯◯人を殺せ。」と唱えるヘイト・スピーチを擁護して、人格権を保障できるのだろうか。特定の集団を社会から排除して、民主主義が成立するのだろうか。

国際社会は、民主主義と人間の尊厳を守り、人格権を守るため、表現の自由と責任を規律する努力を積み重ねてきた。国際自由権規約第20条と人種差別撤廃条約第4条、国連ラバト行動計画、人種差別撤廃委員会一般的勧告35号、国連ヘイト・スピーチ戦略、欧州人権裁判所判決、国連人権理事会普遍的定期審査のいずれも、差別の禁止、ヘイト・スピーチの禁止のための基準作りを積み重ねてきた。

それゆえ世界の150か国でヘイト・スピーチ禁止法がつくられている。つまり、150か国の立法者が、人種・民族差別の抑止のために、よりよいヘイト・スピーチ法の制定を模索してきた(必ずしも十分ではないが)。150か国の裁判官がヘイト・スピーチの法適用を実践してきた(表現の自由と非差別原則を十分調整できたと言えない場合もあるが)。150か国の憲法学者と刑法学者がヘイト・スピーチ抑止のためのより良い法解釈を追求してきた。

これに対して、根本は次のように茶化す。

「ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。」

この文章は何を意味するだろうか。

ユダヤ人迫害や、イスラモフォビアや、難民排斥や、過激なナショナリズムや、テロに至る過激主義や、白人至上主義や、世界各地のジェノサイドや人道に対する罪との闘いのために、国連人権理事会の特別報告者や、人種差別撤廃委員や、国連ジェノサイド特別顧問たちがヘイト・スピーチ規制の国際人権法を彫琢し、精錬してきた。

日本では在日朝鮮人、中国人、アイヌ民族、琉球民族をはじめとして、多くのマイノリティが差別に喘ぎ、ヘイト・スピーチの標的とされてきた。

差別被害を訴える声に対して、根本は次のように嗤う。

「ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。」

私の尊敬する研究者たち、たとえばフランク・ラ・リュ(国連人権理事会の表現の自由特別報告者)、アスマ・ジャハンギル(国連人権理事会・宗教の自由特別報告者、国際法律家委員会委員)、アブデルファタ・アモル(国際自由権規約委員会委員)、モーゲンス・シュミット(ユネスコ表現の自由部局事務局次長)、パトリス・マイヤー・ビシュ(フリブール大学倫理人権研究所所長)、ドゥドゥ・ディエン(国連人権理事会元・人種主義人種差別特別報告者、元国際法律家委員会事務局長)、パトリック・ソーンベリ(国連人種差別撤廃委員会委員、キール大学教授)、ナタン・レルナー(テル・アヴィヴ大学教授)、ルイ=レオン・クリスチャン(ルーヴァン・カソリック大学教授)、ハイナー・ビーレフェルト(国連人権理事会宗教の自由特別報告者)、ゾンケ・マジョディナ(国際自由権規約委員会委員)、ファン・ヨンガン(国連人種差別撤廃員会委員)、エドゥアルド・ベルトーニ(パレルモ大学教授、元米州人権委員会・表現の自由特別報告者)、イオン・ディアコヌ(国連人種差別撤廃委員)が、人種主義ヘイト・スピーチ規制法の解釈をめぐって論戦を闘わせてきた。人種主義が現代世界の深刻な病理となっているからだ。

これに対して、根本は次のように唾を吐く。

「ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。」

どんなに愚劣なことを書いても、日本語だから、世界には知られないので構わないと考えているのだろうか。

 以上。