Friday, March 03, 2017

「子ども母親」問題・写真展

ジュネーヴの国連欧州本部旧館Aビルの旧本会議場前ホールで「子ども母親」問題・写真展が開かれている(2月27日~3月17日)。主にバングラデシュ、ブルキナファソ、ハイチ、ガーナ、コロンビア、ザンビアの女性と赤ん坊の写真が30数枚展示されている。映像作家ピーター・テン・フーペンによる映像も上映されていた。
子ども結婚・早期結婚・強制結婚、人身売買、レイプの結果として、妊娠した女の子、出産して母親になった女の子の写真だ。それぞれ簡単なキャプションしかついていないが。
2月28日、ブルキナファソ司法・人権大臣ベソレ・ルネ・バゴロや、人権高等副弁務官ケイト・ギルモアらがトークを行った。司会の女性はヨーロッパでは知られた女優だそうで、喋りのうまさは抜群だった。
YVORNE ROUGE, La Fierrausaz,2015.

ヘイト・スピーチ研究文献(95)フランス法の状況

光信一宏「フランスにおける人種差別的表現の法規制(4)」『愛媛法学会雑誌』43巻1・2合併号(2016年)
同誌に連載された詳細なフランス法研究の最終回である。全体で次の4部構成。
Ⅰ 1972年7月1日のプレヴァン法
Ⅱ 人種的名誉毀損罪および同侮辱罪
Ⅲ 人種的憎悪煽動罪
Ⅳ ホロコースト否定罪
今回はⅣのホロコースト否定罪の研究である。フランス法については、成嶋隆の研究(『獨協法学』92・93号)が先行するが、情報内容が古く、なぜか最近の情報を入れていない等疑問が少なくない。成嶋論文への疑問は下記で指摘しておいた。
光信論文は、フランスにおけるヘイト・スピーチ法の包括的で最新の研究であり、重要だ。法律制定過程、条文の解釈、事件や判例の紹介を含めて、しっかりした論文になっている。今回の分について若干のコメント。
第1に、ホロコースト否定罪について、「ドイツ、オーストリア、スイス、ベルギー、ルクセンブルク、リヒテンシュタイン、ルーマニア、ポーランド、チェコおよびスロヴァキアなど十数カ国にのぼっている」としている。フランスについては詳細な研究をしている。オーストリア、スイス、ベルギーについても若干言及している。従来の研究はドイツに偏り、それ以外には言及がないのが普通であった。私は、光信とは別の情報源に基づいて、同じく十数カ国と繰り返し紹介してきた。さらに調査が必要だ。
第2に、ホロコースト否定罪の「法規制の動きの先鞭をつけたのがフランス」としている。1990年の社会党のミッシェル・ロカール内閣の下で提案されたゲソ法を念頭に置いている。一般にドイツに始まったというイメージがあり、私もその点を詳らかにしてこなかったが。
第3に、ホロコースト否定犯罪処罰論と、これに対する批判を丁寧に紹介している。立法段階での議論、適用段階での議論の双方にわたって、表現の自由や歴史研究(学問の自由)との関係を明示している。
第4に。欧州各国の法規制を推進したのがEUの枠組み決定であることにも的確に言及している。EU枠組み決定自の重要性は、師岡康子(岩波新書)がいち早く指摘している。ただ、EU枠組み決定が出来上がる過程についての研究は従来、ないようだ。これほど影響の大きい文書なのに。私は国連サイドの研究で手いっぱいで、ラバト行動計画やCERD一般的勧告35は見てきたが、EUの調査はできていない。誰かやってくれないだろうか。
第5に、光信はフランス法の状況を紹介するが、非常に謙抑的であり、その先に言及がない。分析を深めることなく、論文はあっけなく連載終了である。外国法紹介は重要だが、比較法研究としては物足りないし、日本についてどう考えているのか気になる。

Wednesday, March 01, 2017

死刑台から生還したウガンダ女性、スーザン・キグラ

「昨年秋、オスロで開かれた死刑廃止世界会議に招かれたので、びっくりしました。旅行なんてしたことがなかったからです。2000年に逮捕されて、法律には無知だったので何が何だかわからないうちに死刑になりました。泣いて、絶望して、困惑して、どうしようもない日々でした。やがて、本を読むようになり、監獄の学校で勉強するようになりました。アフリカ監獄プロジェクトの協力で、ロンドン大学通信教育を受けました。それで法律を勉強したんです。わからないことばかりで、何度も何度も勉強しているうちに、ようやく訴願の出し方を知りました。それで憲法裁判所に訴願を出したんです。その結果、憲法裁判所が死刑は憲法違反だと判断しました。おかげで、2016年1月に釈放されたので、いまも法学の勉強を続けています。オスロに呼ばれたし、今日はジュネーヴに呼ばれました。」(スーザン・キグラ)
3月1日、ジュネーヴの国連欧州本部で開催中の国連人権理事会34会期において、死刑に関する2つのパネルが開かれた。
1つは、ECPM(ともに死刑に反対する)主催の「猶予から廃止へ:2019年までの廃止戦略」である。
もう1つは、人権理事会公式のパネル「死刑問題に関するハイレベル・パネル」である。
前者のECPMパネルのメインスピーカーが、監獄で法律を勉強して、違憲判決を勝ち取り、出獄した元死刑囚スーザン・キグラである。
他に、ノルウェー外務副大臣のマリト・エルガー・レスランド、ECPM事務局長のラファエル・シュヌイル・ハザン、中央アフリカ死刑反対連盟のメトル・リエヴィン・ンゴンジ。参加者は約80名。うち30名は政府代表で、私の隣に座ったのはブラジル、エストニア、リヒテンシュタイン政府。日本政府は不参加。
スーザンの演説以外の大きな話題は、2016年のオスロ会議を経て、今後の取り組み。2018年にアフリカで地域会議を開き、2019年にブリュッセルで世界会議を開くので、その準備。
後者のパネルは、西インド大学教授のヴェレーネ・シェパード(ジャマイカ)が司会をして、ザイド・アル・フサイン人権高等弁務官、ハーレム・デシル・フランス外務大臣の挨拶、そして、チュニジア元大統領モンセイフ・マルゾウキ、ケニア人権委員会議長のカグヴィラ・ンボゴリ、ASEAN人権委員会タイ代表のセレエ・ノンハスート、人権理事会拷問問題特別報告者ニルス・メルザーの報告。
死刑廃止論者ばかりだが、後半の討論では、マレーシアやボツワナなどが死刑必要論を唱えていた。議論の中身は相変わらず同じことの繰り返し。
唯一おもしろかったのは、メキシコが「デュープロセスの下で死刑はなぜ可能なのか」と発言した部分。これは、死刑存置国が「死刑は人権問題ではなく、刑事司法の問題であり、国家主権の問題である。デュープロセスやフェアトライアルが保障されていれば、死刑は認められる」としてきたのに対して、普通は、「死刑は人権問題だ。死刑は拷問に当たる」と反論してきたところ、メキシコは「死刑とデュープロセスは両立しないのではないか」と唱えたのだ。この論点を詰めるべきだが、他の国が続かなかった。
理論的に整理すると、デュープロセスは刑事手続法の問題であり、死刑は刑事実体法の問題とされてきた。しかし、メキシコは「死刑は手続法と実体法の両方の問題だ」としているようだ。重要だ。

Tuesday, February 28, 2017

原発に抗して生き抜く庶民とジャーナリスト

本田雅和『原発に抗う――『プロメテウスの罠』で問うたこと』(緑風出版)
敬愛するジャーナリストの本だ。原発問題をしっかり取り上げてきた出版社から、ぎりぎり2016年最後の日に出版された。
福島原発事故をどの視点からどのように語るか。政府の原子力政策をストレートに批判することも必要だし、東電の無責任体制を糾弾することも必要だ。避難者に対する政策や、復興の在り方を批判することも重要だ。メディアの責任も、御用学者の責任も、騙されていた私たちの責任も。実に多様なテーマがひしめいている。どのテーマももっともっと掘り下げが必要なのに、今や「風化」が語られている。
本書は、原発事故と放射能被曝の恐怖の中で生き抜いて、闘っている市井の庶民に光を当てる。
「第1章 希望の牧場」では、殺すべき牛を殺さずに育て続けている浪江町の希望の牧場の吉沢正巳の呻き声を、涙を、憤激を、伝える。吉沢とともに泣き、笑い、闘う人々の苦悩を伝える。人には語ることのできない体験と記憶がある。語れば語るほど見えなくなる襞がある。著者は、吉沢の激しい転戦を追いかけ、研ぎ澄まされた感性を、読者に伝えようとする。
「第2章 原発スローガン「明るい未来」」では、「原子力 明るい未来のエネルギー」というスローガンを考案した大沼勇治の「看板撤去」の訴えを掘り下げる。このスローガンを考案した12歳の少年だった大沼は、原発事故の記憶と記録を残し、教訓とするため、スローガンを残すよう求めると同時に、「26年目の訂正」として「原子力 破滅 未来のエネルギー」を打ち出す。自らを責めることから、本当の未来に向かって歩むことを学び、歩み始めた庶民の闘いがここにある。同時に、現場で生き抜く庶民に鍛えられたジャーナリストの報告である。
フクシマ事故によって人生を破壊された無数の人々の、ほんのわずかな例ではあるが、本書は終わらないフクシマの悲劇の一断面を鮮やかに描き出す。
「エピローグ/追記/惜別」では、著者が「師」と仰ぐ高木仁三郎への想いが提示されている。1980年代後半から高木に学んだという著者は、高木の訃報記事を最後に掲載している。これだけでは多くの読者にきちんと伝わらないのではないかとも思うが、ここから高木に関心を持ち、調べる読者もいるかもしれない。私も、チェルノブイリ事故の後、高木の講演会に何度か足を運んだ。市民科学者という提唱にも賛同できる。私たちはまだまだ高木に学び続けなければならないと思う。
せっかくの好著だが、違和感を抱かせられるところもないわけではない。新聞記者から弁護士となり、原発事故後に東京電力の情報隠しを追及した人物をヒーローとして極めて高く評価し、持ち上げている点は特にそうだ。
私はこの人物と国際人権法をめぐって論争したことがあるが、およそ基礎知識もなく出まかせを並べるだけだった。国際人権法の初歩を間違えていることを指摘したところ、逃げ回り、結局、誤りを訂正することもしなかった。最初は単なるミスで済むが、誤りを認めず、訂正もせず逃げたのは嘘つきと非難されてもやむを得ないだろう。弁護士としてもジャーナリストとしても失格だ。だから「インチキ弁護士」という称号を献呈した。その人物が、本書では、病魔と闘いながら、人のために尽くした素晴らしい弁護士として登場する。ニセモノを見抜く力も必要だろう。

日本列島は楽しい! ブルーバックス2000冊

山崎春雄・久保純子『日本列島100万年史』(ブルーバックス)
日本政治は愚劣で情けないが、日本列島は楽しいことがわかった。自然地理学・地形学から見た、第四紀の日本列島形成史だ。100万年の歴史変容だが、地球46億年からいえば「現代」だという。思いがけない視点の連続。
総論に続いて、北海道、東北、関東から九州まで、順次、特徴を描き出している。北海道では、大雪山と氷河期とナキウサギ、そして石狩平野と泥炭地の話。札幌出身の私にはなじみの土地の話だ。関東では、武蔵野や高尾山も出てくる。八王子在住の私の地元。といった形で、全国各地の地下、火山、平野、河川、海盆の読み方が見えてくる。
ふだん地形学の本を読むことはまずない。原発問題に関して地震学の本を読む程度。本書を購入したのは、ひとえにブルーバックス「通巻2000番突破!」、だからだ。
1963年に始まったブルーバックス、50数年で2000冊だ。ブルーバックスにはお世話になった。高校時代から何冊読んだことだろう。理科系が苦手の私は、毎年必ずブルーバックスを2~3冊読むようにしてきたので、たぶん100冊以上は読んでいる。量子力学や相対性理論はもちろんブルーバックスで学んできた。いま同僚の一人が元『ニュートン』の編集者だが、彼も高校時代からブルーバックス派だったそうだ。

Monday, February 27, 2017

あらゆる闘争の集約が必要だ

佐高信・浜矩子『どアホノミクスの正体』(講談社+α新書)
辛口コンビというか、過激な論客というか、正論の神髄というか。
アベノミクスはとっくに破たんしているのに、アベシンゾーはひたすらごまかし路線だし、ジャーナリズム精神なきマスコミがそれを支えているが、破たんしているかどうかが問題なのではない。浜によると、破たんしていようがいまいが、そもそも「人間を無視したインチキ経済学」を容認してはならないのだという。なるほど、と思う。アホノミクスは経済政策ではなく、戦争国家をつくる政策である。なるほど。これほどひどい事態にもかかわらず、貧困が抵抗に向かわず、独裁を支えてしまう末期症状をいかに治療するのかが問われる。
佐高節と浜節が激突して独特の妙味を感じさせる。随所で現実に怒りを覚え、随所で2人の話に笑えるところも、なかなか。
一番笑えたのは、佐高が「私は朝日新聞元主筆の若宮啓文と親しかった」と言いつつ、「若宮が腰を据えて闘わなかったのはクリスチャンだったからだ」と述べたのに対して、浜が、クリスチャンが「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す」という言葉は誤解されており、「イエス・キリストは戦闘的な人です」と解説した直後に、若宮が「戦闘的でなかったのはクリスチャンだったからというよりは、朝日新聞だったから」と見事なオチをつけているところだ。
私なら「若宮のような御用聞きがそもそも闘うはずもない」と切り捨てるところだが。ちなみに佐高によると、早野透も洗礼を受けていたという。さて、早野。
それはともかく、安倍政権、日銀、財界、マスコミの腐敗暴走集団をなんとかしないと、この船は本当に沈没してしまう。浜は最後にこう述べている。
「貧しい者、弱い者の側に本気で立つなら、ヤクザであろうと何だろうと歓迎でいいでしょう。アホノミクス的な人権侵害を蹴散らかしていくには、あらゆる弱者を包摂する、あらゆる闘争の集約が必要なのだと思います。」

ASEAN経済共同体の行方

岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』(講談社現代新書)
欧州共同体がイギリスの離脱問題で揺れているように、地域共同体には新たな限界が示されてきたが、東アジア共同体論のためにも、多様な地域共同体の成果と限界を踏まえる必要がある。2008年にASEAN憲章がつくられた地域はどうなっているのか。そうした関心から読んでみた。結論として、そうした関心への答えは示されていない。
本書はむしろ「多様性の中の統一(協調)」という言葉が繰り返されるように、もともと地理的にも多様で、諸国の領土面積や人口も大小バラバラ、宗教的にも民族的にも多様なこの地域が、どのような複雑な歴史を経て、今日のASEANの挑戦にたどり着いたかを明らかにすることにある。土着国家の時代から、植民地期を経て、日本の戦争被害を受け、戦後の独立過程も多様だが、それぞれに農業国家から工業国家への転換を遂げてきた諸国の、共通性と差異を何度も何度も確認しながら、本書は全体像を示す。
インドネシアのような地域大国から、ブルネイ、東ティモール、シンガポールのような小国まで、比較するのも不思議なくらいかけ離れた諸国である。大陸の国家(ヴェトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア)と島嶼国家(フィリピン、ブルネイ、インドネシア、東ティモール)。仏教のミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、イスラムのインドネシア、マレーシア、ブルネイ、キリスト教のフィリピン、東ティモール。こうした差異にもかかわらず、長い時間をかけて拡張してきたASEANであるから、性急な統合には走らない。多様性の中の統一がめざされる。
その意味では、ASEAN経済共同体もはじまったばかりであり、その帰趨は読めないし、著者は安直な予測はしない。東アジア共同体論にとって参考になる記述はほとんどない。とはいえ、東南アジアの政治、経済、社会が孕む課題がよく分かった。