Friday, October 12, 2012

映画『サルサとチャンプルー』


昨夜は八王子の「くらしアート無名庵ギャラリー」で「シネクラブ映画上映会」だった。元同僚の波多野哲朗監督『サルサとチャンプルー』。


 

映画『サルサとチャンプルー――Cuba/Okinawa


 

ソ連東欧と異なる「明るい社会主義」のキューバを訪れた波多野監督は、最初はハバナの地面から湧きあがるようなラテンのリズムに魅せられ、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』のような映画を作ろうと考えたようだが、偶然のきっかけから、キューバに渡った日本移民の存在に気づく。

 

キューバ本島ではなく、辺境のまた辺境の島「青年の島フヴェントウ」Isla de la Juventudに渡り、そこで移民1世に取材する。90~100年前にキューバに渡った日本人の話や歌に「日本」を再発見する。しかし、ブラジル移民と違って、キューバの日本移民の子どもたちはキューバ社会に溶け込んでいる。やがて、2世、3世への取材も重ねることになる。カタコトの日本語、流ちょうなスペイン語、あるいはインテリはロシア語も話す。現地の人と結婚して、子どもたちはキューバ人になる。

 

そうした日系移民を追いかけながら、波多野監督は、日系人とは何か、さかのぼって日本人とは何かを考える。ナショナリズムや純血主義に抗して、キューバ社会に溶け込み、混合していく日系移民の中に可能性を見る。

 

1世が亡くなった後、親の骨を故郷に埋葬するために沖縄に帰った2世は、ところが、そのまま沖縄に住み着いた。その息子3世は、キューバで結婚した妻と子どもと置き去りにして、沖縄で働き、結婚し、子どもを作ってしまう。

 

辺境の沖縄から辺境のキューバ、そのまた辺境のフヴェントウへ。溶解と混合、定住と移住、そして逆移住(帰郷)。日本文化とキューバ文化、響き合い変容する言葉――波多野監督はサルサが生まれる瞬間に立ち会う。思いがけないチャンプルーに心も体も震える。

 

上映後、監督と参加者の対話がなされた。焦点となったのは、やはり、100年前の「日本」を生きている老人の表情と心情であり、他方で、同じ「日本」を拒絶しているかのような老人の言葉であった。貧困から抜け出るために渡った先での貧困を生き抜き、壮絶な人生を生き抜いた、しかし、知られざる無名の日本人。肯定とか否定とかではなく、ただひたすら涙を流したという参加者が、湧きあがるサルサとチャンプルーの彼方に、いまだしかとは言葉を与えられないものの、かすかな希望を感じ取ったという。

 

対話の際に持ち出すことをためらったのだが、フヴェントウのパノプティコンには驚いた。

 

パノプティコンとは、思想家ジェレミー・ベンサムの発案として知られる近代合理主義思想のモデルだ。一望監視装置とも翻訳される。監獄、病院、学校などの構築モデルだ。イラストではよく見るが、実物を見たことがない。明治時代に導入された日本の監獄もパノプティコン・モデルであるが、実際の形状はかなり違う。府中、横浜、千葉の刑務所を昔見学した際に、発想は同じだが、スタイルが違うことは良くわかった。日本では本格的なパノプティコンは作られなかった。

 

見たのは、ダーバン(南アフリカ)のアパルトヘイト博物館に置かれた模型だ。法的社会的に設計されたアパルトヘイトの思想を説明するために、博物館にはパノプティコンの模型が設置され、ミシェル・フーコーの解説の英訳が掲示されていた。

 

そのパノプティコンが、アメリカ時代のキューバには本格的に建設されていたのだ。監獄だ。波多野監督は、やはりミシェル・フーコーの名とともに、パノプティコンを映し出す。今は放置され、廃墟となっているが、しっかりと残っている。日系移民2世が、かつて父親が収容されたパノプティコンの古びた階段を上る。

 

1940年代、日米戦争がはじまると、日本人移民は強制収容された。最盛期、キューバには1000人以上の日本人がいたが、1940年代に収容された日本人男性は350人ほどだったようだ。キューバ各地に散在していた日本人移民がフヴェントウの収容所に送られた。貧困の中の貧困を生きた日本人移民はついに収容所に収容される。そこで彼らは「日本」に出会う。ばらばらに孤立していた日本人が一か所に集められたからだ。日本語と日本文化がねじれた形で彼らを結び付ける。不思議な物語であるが、パノプティコンの中の日本文化とはいったい何か。わからない。

 

ともあれ、アメリカにも欧州にも日本にも実在しないだろうパノプティコン、近代合理主義の監獄思想を体現する建物がキューバに作られ、今なお残されている。キューバと沖縄から、アメリカと日本はどう見えるか、というテーマにつながることになる。

 

パノプティコン


ここにもキューバの実例の写真が掲示されている。