Thursday, October 04, 2012

疾走するジジイめざして


蜷川幸雄『演劇ほど面白いものはない』(PHP研究所)



 

<名門・私立開成中学高校を卒業後、画家になろうと芸大を受験して失敗。生意気な「貴族俳優」が劇団を立ち上げ、演出家となって一世を風靡した――「世界のニナガワ」が自らを語る。>

 

新宿小劇場時代の成功ののち、行き詰まりを感じていた時期に商業演劇に誘われて、商業演劇で演出を手掛けるや、それまでの小劇場時代の仲間から距離を置かれて苦しんだエピソードが面白い。蜷川幸雄が裏切った、ということでひどく批判され、次の仕事をしようにも昔の仲間には協力してもらえなかったという。

 

<「なんかみんな断るんだよね」と女房に言うと、「ばかね、あんたと仕事したくなくなったのよ」と言われました。/孤立無援でした。結局誰一人賛成してくれず、劇団員みんなから批判された。それは、すごい衝撃だった。僕は商業演劇の仕事が、悪いこととは思っていませんでしたから。こうして、集団は崩壊しました。>

 

70年代半ばのことだ。60年代後半から70年代初頭の疾風怒濤の時代が過ぎて、社会も演劇も大きく変容していた。蜷川は商業演劇に移行して大成功をおさめ、世界のニナガワになっていくが、移行期の苦しみもあったということだ。

 

もっとも、苦境を救ってくれたのは唐十郎からの電話だったという。

 

世界のニナガワとなっても、蜷川の魅力は、金に飽かせた演出をしないことだろう。もちろん、大道具小道具満載の演劇もやるが、同時に、実に「貧乏所帯」の演劇を、しかし、重々しく展開してみせることもある。シェイクスピアものも、井上ひさしものも、そうだ。また、コンピュータ映像を駆使した派手な場面作りもしない。手作りの工夫で、始まり3分間で観客を場面に引きずりこむことに力を注ぐ。

 

1935年生まれの蜷川幸雄は次の言葉で本書を締めくくる。

 

<最後まで、

枯れずに、過剰で、

創造する仕事に冒険的に挑む、

疾走するジジイであり続けたい。>