Wednesday, October 17, 2012

アートとアート的なものの間で


大野左紀子『アート・ヒステリー――なんでもかんでもアートな国・ニッポン』


 

著者は、

 

1959年、名古屋生まれ。東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。現在、名古屋芸術大学、トライデントデザイン専門学校非常勤講師。著書に『アーティスト症候群』『「女」が邪魔をする』などがある。>

 

元はアーティスト志望だったようだが、断念したのか、しかし、文才はあったようで、『アーティスト症候群』に続いて本書を送り出した。

 

本書の宣伝文句は、

 

「これマジでアートだね!」……やたらと「アート」がもてはやされる時代=「一億総アーティスト」時代。アート礼賛を疑い、ひっくり返すべく、歴史・教育・ビジネスから「アート」を問う。

「何なの? これ」「アート」
「え、こんなことやっていいの?」「うん、だって、アートだから」

「アート=普遍的に良いもの」ですか? そこから疑ってみませんか?
『アーティスト症候群』から4年、「アート」の名の下にすべてが曖昧に受容される現在を、根底から見つめ、その欲望を洗い出す。

【!!こんな人に読んでほしい!!】
1
:互いの作品を批判せずなんとなく褒め合っているガラスのハートの美大生。
2:「個性と創造性が重要」と「図工って何の役に立つの?」の間で困っている先生たち。
3:「アートは希望」「今こそアートの力が必要とされている」と訴えたい業界回りの人。
4:「普通」を選んでいるにもかかわらず「ちょっと謎めきたい願望」を抱く社会人。>

美術がアートと呼ばれるようになったプロセスとその動因の分析が本書の基軸となる。西欧では、モダンアートの歴史が「息子による父殺し」の歴史として記述されてきたのに対して、その結果だけをいきなり輸入した日本では、殺されるべき父親もなく、殺す息子の緊張もなく、市場価値とブランド商品化がストレートに展開し、美術と美術教育の制度化により保護され、欲望を刺激するアートの場所が出現してきた。

 

ピカソを理解できなくても、「ピカソ的なもの」がこの国を席巻する。印象派というわかりやすさと、フェルメールという安心できる風俗が、この国では全的に受容される。

 

「第3章 アートは底の抜けた器」の「液状化するアート」「ナルシシズム市場の広がり」「村上隆の『父殺し』」「『セルフ・オリエンタリズム』アーティスト」など、なかなかおもしろい。「制度としての日本の美術」の頂点に実は「天皇」がいて、それが現在の象徴天皇制であっても、「父」としての存在となり、村上隆という「不肖の息子」による「父殺し」が完結するという仮説はなかなか。もっとも、天皇が果たして「父」イメージにかなうかどうか。象徴天皇制は天皇の「母」的性格をも担っている。