Saturday, February 12, 2022

表現の自由に守る価値はあるか!? 02

松井茂記『表現の自由に守る価値はあるか』(有斐閣、2020年)

1章 ヘイトスピーチと表現の自由

 はじめに

 1. 1 日本におけるヘイトスピーチ問題の歴史

 1. 2 在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチ

 1. 3 民事的救済および刑事処罰の可能性

 1. 4 ヘイトスピーチ禁止を求める声の高まり

 1. 5 ヘイトスピーチ禁止の合憲性

 1. 6 提案されているヘイトスピーチ禁止は正当化されるか

 1. 7 ヘイトスピーチ対策法および大阪市条例・川崎市条例の合憲性

 1. 8 ヘイトスピーチの現在

 結びに代えて

 松井は、ヘイト・スピーチの歴史として中世以来の部落差別に言及し、日本には古くからヘイト・スピーチがあったが、これを規制しようという刑事法の議論は近年のヘイト・スピーチ論議からと見る。特に在日朝鮮人に対するヘイト事件の頻発として、在特会によるヘイト活動があるという。そして、京都朝鮮学校事件民事訴訟の裁判経過を確認し、現行法でも十分、民事的救済の可能性があるという。京都事件の判決は、人種差別撤廃条約を引証したが、民法の不法行為による救済が可能であるから、「人種差別撤廃条約違反の違法性を付け加える実益はあまりない」(22)という。

 次に松井は、刑事法について検討し、現行法にはすでに威力業務妨害罪、脅迫罪、名誉毀損罪等があると指摘し、特定の人に向けられたヘイトは処罰できるが、在日朝鮮人一般に対するヘイトの処罰は難しいかもしれないと確認する。さらに公安条例等のデモ規制の限界も指摘する。その上で、ヘイトの禁止を求める声が高まってきたとし、その先駆けとして内野正幸の見解、及び2015年に参議院に提出された人種差別撤廃法案(廃案となった)を検討する。

 「1. 5 ヘイトスピーチ禁止の合憲性」において、松井は「国際的比較」と称して、まずアメリカ法を紹介する。内容に新味はなく、従来紹介されてきたことの再確認である。次にドイツ法の民衆扇動罪を紹介する。さらにカナダ刑法を紹介する。以上全てすでに紹介されてきたものであり、新味はない。三番煎じ、四番煎じといったところだろう。唯一明確なことは、松井にとって世界はアメリカ、ドイツ、カナダだけでできているということだろう。現代世界の深刻な問題の一つがレイシズムの跋扈であり、その具体的行為としてのヘイト・スピーチの流行である。レイシズムにいかに対処するべきかを考える時に、なぜ、レイシズム対策に前向きとは言えない代表的な国であるアメリカとカナダを参照するのか、理由が示されることはない。

その上で松井は「果たして日本国憲法の問題として、ヘイトスピーチを禁止し、違反行為に刑罰を加えることは正当化されるであろうか」と問う(34頁)。

松井は「まず、はじめに確認しなければならないことは、ヘイトスピーチも憲法上保護された表現であるということである」と断定する(34)。最初に断定ありき。「憲法上保護された表現である」からヘイト・スピーチの刑事規制は許されない。

松井は、ヘイト・スピーチは言葉による暴力であって、もはや表現と呼ぶことはできないという主張を取り上げ、「ヘイトスピーチはまさに『表現』である」と宣言し、「それは表現ではなく暴力行為そのものだと特徴づけることは適切とは思われない」という。

ヘイト・スピーチは表現の自由の保護を受けるので、表現の自由の制約の合憲性を判断する際にどのような枠組みを用いるべきなのかが問題となる」(36)という松井は、アメリカのブランデンバーグ判決や、カナダ最高裁判所の判例理論を再確認し、次のように述べる。

「ヘイトスピーチ禁止の合憲性を判断する際に、どのようなアプローチをとるべきか、具体的にはアメリカとカナダのアプローチのどちらが優れているのかは微妙な問題である」としつつ、カナダの判例法理には予見可能性が欠け、表現の自由の保護は危ういものとなるとして、「これらのことを考えると、カナダのような(そしてドイツのような)比例原則ではなく、アメリカのような厳格な枠組みの方が望ましいのではないかと思われる」と結論付ける(38頁)。日本国憲法の条文など無視して、アメリカ判例の法理を採用するべきと主張するのは憲法学の「主流」の典型であるが、なかなか理解しがたいことはすでに何度も指摘してきた。最近では前田『要綱』第2章第4節参照。

なお松井はヘイト・スピーチと言っても一括に論じることはできず、少なくとも4つの類型に分けて論じるべきとして、1)少数者集団への危害の煽動、2)少数者集団に対する名誉毀損、集団的誹謗、侮辱、3)差別の助長、4)ヘイトの増進、の4類型に分けて論じる。

ヘイト・スピーチには異なる類型が含まれることは、私も主張してきたし、成嶋隆もこれを論じてきた。奈須祐治も一段階と二段階という類型を設定している。この点では松井の指摘はもっともである。論者によって類型の分け方は異なるので、更に検討が必要だ。その際、松井の類型論も参考になる。