Sunday, February 13, 2022

表現の自由に守る価値はあるか!? 03

松井茂記『表現の自由に守る価値はあるか』(有斐閣、2020年)

松井は「1. 6 提案されているヘイトスピーチ禁止は正当化されるか」において、これまで提案されているヘイト・スピーチ規制について検討する。その際、最高裁判所の判例によれば、ヘイト・スピーチ規制は合憲とされるかもしれないとしつつ、最高裁判例を否定して、カナダ最高裁判例に準拠して検討する。

松井は、カナダ憲法の多文化主義を紹介した上で、日本国憲法には多文化主義の規定がないとして、多文化主義を根拠とするヘイト・スピーチ規制を疑問視する。理由は次の5つである。

1に「日本は移民国家ではない」。「カナダと異なり、日本の民族的構成は、はるかに多様性に欠ける」。(61頁)

2に「伝統的に日本の社会は協調と調和に重きを置いてきた」(62頁)。

3に「日本の保守的な人々の間では、日本の伝統と文化の保持に特にこだわる人々が少なくない」(62)

4に、「韓国にはヘイトスピーチ、とりわけ日本人に対するヘイトスピーチを禁止した法律は存在しない。そうした中で、日本に対してのみ多文化主義を受け入れて、在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチを禁止すべきだという主張が、どこまで説得力を持ちうるのか定かでないと言えよう」(63頁)。

最後に、「ヘイトスピーチの禁止を導入した時、政府に少数者集団の保護と言う名目のもとに、政府に不都合な表現の抑圧を許す危険性はないのかどうかも、真剣に検討する必要があろう」(64頁)

若干のコメントを付しておこう。

1に、ヘイト・スピーチの規制の要否と移民国家であるか否かは無関係である。日本が移民国家であろうとなかろうと、また日本政府が「日本は移民国家である」と認めようと認めまいと、現にヘイト・スピーチが起きてきたし、今も起きている。

松井は「カナダと異なり、日本の民族的構成は、はるかに多様性に欠ける」という奇妙な主張をする。世界には150か国にヘイト・スピーチ規制があり、それぞれの国の民族的構成は実にさまざまである。「どの程度の民族的構成ならばヘイト・スピーチ規制が必要だ(あるいは必要ない)」という主張を支えるような統計データはない。日本の民族的構成は、「はるかに多様性に欠ける」というが、日本人、先住民族(アイヌ民族、琉球民族)、移住マイノリティ(在日朝鮮人)、来日外国人など多様な民族的構成がすでに存在するのではないか。そもそも、多様性があろうとなかろうと、現に深刻なヘイト・スピーチが起き続けている。

2に、「伝統的に日本の社会は協調と調和に重きを置いてきた」というが、これは憲法解釈だろうか。俗流日本文化論にすぎないだろう。松井流のお国自慢ナショナリズムの表明でしかない。

3に「日本の保守的な人々の間では、日本の伝統と文化の保持に特にこだわる人々が少なくない」というが、これは憲法解釈だろうか。やはり俗流日本文化論にすぎない。政策論としてこのように主張するのなら理解できるが、合憲性判断の根拠として持ち出す合理性があるとは考えられない。

4に、韓国にはヘイトスピーチ法は存在しないという。およそ意味不明である。ヘイト・スピーチ規制が日本国憲法に照らして合憲か否かを論じているのに、なぜ韓国に規制法があるかないかが関係するのか。憲法論に突如として「相互主義」を持ち出すのはあり得ない話だ。

こんな暴論が通用するのなら、ドイツにはヘイト・スピーチ規制法があるが、その適用に際して「日本人に対するヘイト・スピーチだけは禁止しなくてよい」という議論になりかねない。フランスでもスイスでもイタリアでも、EU加盟国の全てで「日本人に対するヘイト・スピーチだけは禁止しなくてよい」という議論を採用すべきことになる。

5に、政府に不都合な表現の抑圧という「濫用の危険性」論である。刑事法にはつねに当てはまる一般論であって、ヘイト・スピーチ規制に固有の問題ではない。また、「政府に少数者集団の保護と言う名目のもとに、政府に不都合な表現の抑圧を許す危険性」というのは、具体的に何を意味しているのか不明だ。

現実に心配されるのは、「少数者集団の保護の法律を制定しても、政府が逆用して不都合な少数者集団による表現の抑圧を許す危険性」である。警察や裁判所にはこの」危険性があるので、弁護士・メディア・市民による厳しい監視が必要だ。

そもそも、ヘイト・スピーチの禁止要請には少数者集団の自由と人権(表現の自由)の保護が含まれる。「多数者集団の表現の自由の保護という名目のもとに、少数者集団の表現の自由を否定する」日本政府や松井説の下では「ヘイト・スピーチ天国」になり、重大人権侵害が放置され、民主主義が壊れていく。

多文化主義についてもコメントしておこう。

1に、私は多文化主義に基づいた議論をしない。松井が多文化主義に言及しているので、それにコメントしただけである。また、多文化主義を採用するか否かとヘイト・スピーチを規制するか否かは、まったく関連がないとは言わないが、そこから直ちに結論を引き出すことができるわけでもない。多文化主義を採用しようとしまいと、人種主義への批判、反差別と反ヘイトは当然である。

2に、私は日本政府(及び日本の自治体)が唱える多文化主義には一定の留保を付している。ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーンの企画参照。

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/01/20.html

3に、松井はカナダ憲法の多文化主義を特別視するが、深刻な疑問がある。2007年に国連が先住民族権利宣言を圧倒的多数の賛成により採択した時に、反対投票した4カ国の一つがカナダである。人種差別撤廃委員会でのカナダ政府報告書の審査を2度傍聴したが、先住民族差別やマイノリティ差別に関するカナダ政府の姿勢には重大な疑問がある。カナダは先住民族の遺骨を盗掘し、博物館に展示してきた。昨年発覚した先住民族の子どもに対するジェノサイド事件を見ても、カナダが根深いレイシズム国家であることは否定できない。カナダが多文化主義をとり、レイシズム克服の努力をそれなりにしているからと言って、特別に持ち上げる理由はない。