大阪市ヘイト・スピーチ審議会答申を読む(5)
2 「ヘイト・スピーチに対してとるべき措置の内容」について(承前)
2-3 「大阪市独自の措置」について(承前)
①
本市施設等の利用制限について
ようやく「本論」に辿りついた。これまではいわば「序論」である。
答申は次のように述べる。
「ヘイト・スピーチを行う団体であること、又は、ヘイト・スピーチが行われることのみを理由に公の施設の利用を制限することは困難である/ただし、ヘイト・スピーチが行われる蓋然性が高く、かつ、管理上支障が生じる等、現行条例の利用制限事由に該当することが客観的な事実により具体的に明らかに予見される場合は利用を制限することもあり得る」
1月に公表された検討部会報告では次のようになっていた。
「ヘイト・スピーチが行われる、又は、行う団体であることのみを理由に公の施設の利用を制限することは困難である」
つまり、答申では「但」以下の文章が追加され、一定の場合には「利用を制限することもあり得る」とした。
そして、答申は「公の施設について」は、地方自治法244条により、利用団体に「不当な差別的取扱いをしてはならないとされている」ことや、集会の自由や表現の自由を確認する。この点では、検討部会報告と、文章形式・表現が異なるものの、内容上異なることはない。
次に答申は「ヘイト・スピーチを理由とする公の施設の利用制限について」において、「ヘイト・スピーチを理由として公の施設の利用を拒否することについては、それが憲法が保障する表現の自由の行使という側面を持つものであることや、表現内容がヘイト・スピーチに該当するかどうかはその内容を確認しなければ判断できないことから、事前の利用の拒否は極めて困難である」としたうえで、最高裁判例を引き合いに出して「ヘイト・スピーチをこれまでに行っている又は行うと思われる団体であることのみを理由に本市施設等の利用を制限するような趣旨の規定を条例に設けることはできない」とする。さらに、やはり最高裁判例を引き合いに出して、「このような最高裁判例の趣旨から見て、ヘイト・スピーチが行われることが想定されることだけをもって、事前に公の施設の利用を拒否することは極めて困難であると考えられる」と述べる。
その記述は検討部会報告とほぼ同じ内容である。ところが、上記のように「ただし」以下が付されている。この部分については特段の解説がなされていないが、「最高裁判例では、施設の利用制限に合理的な理由があるとして認められる場合として、『会館の管理上支障が生ずるとの事態が、許可権者の主観により予測されるだけでなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合』や『警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別の事情がある場合』でなければならないとされており、当該利用者が施設を利用することに伴い『管理上支障が生ずる』『混乱を防止できない』といった状況が客観的かつ具体的に予測されることが必要である」とする。この記述は検討部会報告と特に変更はない。つまり、同じ最高裁判例を理由に、検討部会報告では「利用を制限することは困難である」と言い切って終わっていたのを、答申では「ただし」以下を補ったのである。
答申が検討部会報告よりも一歩踏み込んで、一定の場合にヘイト団体に公共施設を利用させないことがありうることを認めた点では前進と評価することもできよう。その場合に問題となるのは、いかなる場合に認められか、である。答申が最高裁判例に依拠して述べているのは、次の2つである。
1)
会館の管理上支障が生ずるとの事態が、許可権者の主観により予測されるだけでなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合
2)
警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別の事情がある場合
そして、これらをまとめて「当該利用者が施設を利用することに伴い『管理上支障が生ずる』『混乱を防止できない』といった状況が客観的かつ具体的に予測されることが必要である」としているのである。
以上の答申をどのように読むべきであろうか。私はすでに公表した論文において、何度も繰り返し、「差別団体に公共施設を利用させてはならない」と主張してきた(例えば、前田朗「差別団体に公共施設を利用させてよいか」『統一評論』2014年8月・9月号)。以下、これらと重複するが、なるべく異なるスタイルで、私の主張を提示したい。
第1に、最高裁判例をどう読むかである。果たして本件について最高裁判例が先例として存在するのであろうか。
検討部会報告も答申も二つの最高裁判決を引証している。一つは泉佐野市民会館事件・最高裁判決平成7年3月7日、もう一つは上尾市福祉会館事件・最高裁判決平成8年3月15日である。果たしてこれらの最高裁判決は、ヘイト団体に公共施設を利用させるか否かが問われる本問題についての先例と言えるのだろうか。煩瑣にわたるので、ここでは泉佐野市民会館事件について述べる。
泉佐野市民会館事件は、いわゆる中核派による市民会館ホール施設利用を拒否した事案であり、その不許可処分理由は第一に「中核派は、本件申請の直後・・・に後記の連続爆破事件を起こすなどした過激な活動組織であり」、「本件集会及びその前後のデモ行進などを通じて不測の事態を生ずることが憂慮され、かつ、その結果、本件会館周辺の住民の平穏な生活が脅かされるおそれがあって、公共の福祉に反する」というものであり、第二に「本件申請をした上告人Aは、・・・関西新空港の説明会で混乱を引き起こしており、また、中核派は、従来から他の団体と対立抗争中で、・・・他の団体の主催する集会に乱入する事件を起こしているという状況からみて、本件集会にも対立団体が介入するなどして、本件会館のみならずその付近一帯が大混乱に陥るおそれがある」というものであった。つまり、過去の事件、他の場所での事件などを根拠に、同じ中核派であることや、同じ申請人であるというだけの理由で不許可処分としたものである。これに対して、最高裁は次のように判断した。
「本件条例7条1号は、『公の秩序をみだすおそれがある場合』を本件会館の使用を許可してはならない事由として規定しているが、同号は、広義の表現を採っているとはいえ、右のような趣旨からして、本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、前記各大法廷判決の趣旨によれば、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である。そう解する限り、このような規制は、他の基本的人権に対する侵害を回避し、防止するために必要かつ合理的なものとして、憲法第21条に違反するものではなく、また、地方自治法244条に違反するものでもないというべきである。/そして、右事由の存在を肯認することができるのは、そのような事態の発生が許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合でなければならないことはいうまでもない。なお、右の理由で本件条例7条1号に該当する事由があるとされる場合には、当然に同条3号の『その他会館の管理上支障があると認められる場合』にも該当するものと解するのが相当である。」
これが最高裁判例である。ヘイト団体による公共施設利用とは事案が異なることがわかるであろう。
なぜなら、泉佐野市民会館事件で問題とされたのは、当該団体が過去に、他の場所で、「連続爆破事件を起こすなどした過激な活動組織であ」ると主張されているが、現に維持海差の市民会館で当該行為を行っているわけではなく、当該行為を行うと予告したわけでもない。だからこそ、最高裁は「客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合でなければならない」と述べたのである。
これに対し、ヘイト団体の公共施設利用問題は性格が異なる。例えば2014年の門真市民会館事件では、申請人が公共施設利用手続きを行った上で、自らインターネット上でヘイト集会、差別集会を開催することを事前告知したのである。つまり、現にヘイト行為、差別行為が行われていたのである。泉佐野市民会館事件では、まだ過激な活動が行われていないのに、その危険性があると判断したことが適切であったか否かが問われた。門真市民会館事件では、公共施設利用手続き後、施設利用日以前に、インターネット上ですでにヘイト行為が行われたのである。それは公共施設利用手続きをしたことによって可能となった。ヘイト団体は「公共施設を利用します。手続きも済みました。当局が我々の集会を認めたのです」と宣伝できたし、現にインターネット上で宣伝したのである。
このように、泉佐野市民会館事件と門真市民会館事件を対比すれば、事案が異なることが分かる。つまり、泉佐野市民会館事件最高裁判決は、本件では先例ではないと理解するべきである。
第2に、憲法論としてどのように考えるべきかである。答申は、集会の自由、表現の自由に言及する。ヘイト団体によるヘイト集会といえども、ヘイト・スピーチが犯罪とされていない現状では、公共施設内で集会を開催することは集会の自由、表現の自由であるとの考え方がある。まして、ヘイト団体の認定が合理的に行うことができるかも問われることになる。ここにはいくつかの異なる論点が伏在している。
1)一般に、ヘイト・スピーチは公然と行われる差別煽動行為を指す。つまり、公共施設内での集会は、そこにおいてヘイト発言、差別発言がなされるにしても、差別煽動行為としてのヘイト・スピーチとはならない場合が多いはずである。フランスやノルウェーでは、公然性がなくても被害者が現在すればヘイト・スピーチ犯罪が成立する場合があるが、
2)それではいかなる場合が問題となるのか。一つは、不特定多数の参加者に呼びかけて、参加者が自由に出入りできる場合である。これによって不特定多数の者にヘイト情報を伝達する。もう一つは、公共施設においてヘイト集会を行うことをインターネット上で宣伝して、ヘイト・スピーチに利用する場合である。
こうしたヘイト集会について、憲法は何を定めているのだろうか。答申は集会の自由、表現の自由だけを繰り返し唱える。つまり、憲法第21条だけを論じている。これは疑問である。ヘイト・スピーチについて議論すべきは憲法第21条だけではないはずである。答申は、ヘイト・スピーチの定義について「ア
社会からの排除を目的とするものであること、イ
権利・自由の制限を目的とするものであること、ウ
明らかに憎悪若しくは差別の意識又は暴力を扇動することを目的とするものであること」を掲げた。
人種や民族といった属性を理由として「社会からの排除を目的とする」言動がなされることは、排除される当事者に即してみれば、第1に、個人として尊重されず、人種・民族といった属性に基づいて扱われたのであるから、憲法第13条に関連する(ただし、ここではまだ国家の問題を論じていない)。第2に、法の下の平等に反する事態に置かれたことになり、憲法第14条に関連する。第3に、社会から排除されれば、健康で文化的な最低限度の生活を維持しえない恐れが高いから、憲法第25条に関連する。第4に、社会から排除されれば、生命圏すら危うくなることがあり、憲法第13条に関連する。その他さまざまな憲法上の権利が剥奪されることは容易に理解できる。もちろん、国家がこれらの権利を剥奪したわけではなく、ヘイト行為者が剥奪したのであるから、ただちに憲法問題が生じると言うわけではないかもしれない。
しかし、第1に、市民の憲法上の権利が剥奪される事態を前に地方自治体はどうするべきなのか。公共視閲を利用させることによって、市民の憲法上の権利が不当に剥奪された、又は剥奪される恐れが高い場合、地方自治体はわざわざ公共施設をヘイト団体に利用させて良いのであろうか。
ヘイト団体によるヘイト集会の憲法論を考えるならば、問題は「ヘイト団体に公共施設利用を拒否できるか」ではなく、「そもそもヘイト団体に公共施設を利用させることができるのか」であることが判明する。
憲法学を少しかじっただけの論者は「そうはいっても、表現の自由は優越的地位にあるから」と唱えるであろう。確かに、ほとんどすべての憲法教科書に「表現の自由の優越的地位」が書かれている。
しかし、この見解は適切ではない。
第1に、日本国憲法は「表現の自由の優越的地位」を定めていない。これは憲法学者のイデオロギーにすぎない。
第2に、「表現の自由の優越的地位」を認める余地があるとしても、憲法第13条や第14条に対する優越的地位と理解することはできない。憲法第13条や第14条は日本国憲法の基本的人権の総論に当たる条項であり、各論的条項である憲法第21条が優越するなどということはあり得ない。
第3に、表現の自由の理論的根拠は人格権(憲法第13条)と民主主義であるとされてきた。憲法第13条を根拠に成立する表現の自由が個人の尊重と人格権(憲法第13条)に優越するというのは自己矛盾である。
第4に、日本国憲法の基本精神である憲法前文の平和的生存権や国際協調主義は、第二次大戦の歴史的教訓を受けて記されたものである。かつての戦争において、人格権や法の下の平等や生存権や生命権を否定・軽視されたアジアの人々が日本において「ヘイト・スピーチを受けない権利」を日本国憲法は「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」し、「恐怖と欠乏からの自由」と表現している。この基本精神に立脚して憲法第13条、第14条、第21条、第25条を解釈するべきである。
それゆえ、日本国憲法の解釈として、ヘイト・スピーチは重大人権侵害であって許されず、表現の自由を以ってヘイト・スピーチを許容することはできず、従って地方自治体がヘイト・スピーチに加担するようなことがあってはならない。 [続く]