Saturday, March 06, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(164)刑事規制と個人主義

金尚均「ヘイトスピーチに対する刑事規制」『法律時報』93巻3号(2021年)

『差別表現の法的規制――排除社会へのプレリュードとしてのヘイト・スピーチ』(法律文化社、2017年)、編著『ヘイト・スピーチの法的研究』(法律文化社、2014年)で、主にドイツ法を中心に、ヘイト・スピーチの刑事規制の法理論を研究してきた金尚均の最新論文である。

ヘイト・スピーチ解消法は「ヘイトを許さない」としながら、「規制はしない、処罰はしない」という容認路線を掲げた。他方、川崎市条例は、勧告と命令を出しても従わずヘイトを繰り返した場合に罰則を導入し、行政刑罰(罰金)という形で、ヘイトの刑事規制を日本で初めて採用した。金は次のように述べる。

「第12条の保護法益は『居住する地域において平穏に生活する権利』とされる。生活の基盤としての居住する地域において平穏に生活して人格を形成しつつ、自由に活動することによって、人格的価値について社会から評価を獲得するのであり、地域において平穏に生活する権利は、憲法第13条に由来する人格権として、強く保護される。本邦外出身者が、もっぱら本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として差別され、地域社会から排除されることのない権利は、地域社会内での生活の基盤である地域において平穏に生活し、人格を形成しつつ、自由に活動し、名誉、信用を獲得し、これを保持するのに必要となる基礎を成す。本邦外出身者という属性に基づいて地域において平穏に生活し、人格を形成しつつ、自由に活動し、名誉、信用を獲得し、これらを保持する権利を侵害する差別的言動が規制の対象である。」

川崎市条例の「解釈指針」や横浜地裁川崎支部平成28年6月2日判決の趣旨を踏まえて、金はこのように解釈し、ひとまず個人的法益を確認する。そして次のように続ける。

「これに対し毛利透は、『しかし、個人主義の建前からして、各人が何を人格形成の核に据えるかは各人が自由に決めるべき事柄のはずであり、公権力がある集団に属する人々の人格形成の基礎を特定するには、非常な慎重さが求められるはず』であり『ヘイトスピーチ規制が困難だという理由はまさにこの点にある』『その認定のためには、彼ら彼女らが日本社会において置かれてきた特殊な事情を考慮に入れる必要があるはず』と指摘する。ヘイトスピーチは、マイノリティの『幸福を追求する権利』を否定し、民主主義の基盤である『法の下の平等』それ自体を破壊する暴力に他ならないとの遠藤比呂通の指摘があるように、社会からの排除、つまり集団とその構成員の同じ人間としての存在の否定という意味をもつ。このことから、ヘイトスピーチは個人的法益にも増して社会的法益に対する侵害・危険としてクローズアップされる。」

こうして金は、ヘイト・スピーチ規制は個人的法益と社会的法益の双方を考慮すると見ているようである。

川崎市条例が罰金のみを採用していることについて、金は、「ヘイトスピーチが野放しに許されていた社会状況から大きな一歩を踏み出したということは間違いないが、『お金で済む』との誤ったメッセージを社会に送る恐れがあることも認識しなければならない」と言う。

欧州諸国のヘイト・スピーチ規制法は多くの場合、刑事施設収容を柱としている。刑事施設収容及び/又は罰金、又は社会奉仕命令である。刑事施設収容の期間にはかなり幅があり、法定刑の上限は6月以下であったり、1年以下、2年以下、5年以下もあれば、10年以下のところもある。

川崎市条例は、命令違反に刑罰を規定しているが、処罰範囲が明示されていないようにも見える。金は、勧告、命令、そして違反への刑罰というプロセスを確認して、「行為が抽象的に有害であるだけでなく、害悪の発生及びその重大性を予定していると言える。それゆえ、法文上の明確性が担保されている」と言う。

金の見解のほとんどすべてに賛同する私だが、1点だけ、説明を補足しておく必要を感じる。毛利透の見解をどう見るかである。

*毛利透「憲法訴訟の実践と理論(第1回)ヘイトデモ禁止仮処分命令事件」『判例時報』2321号(2017年)

毛利は、「個人主義の建前からして、各人が何を人格形成の核に据えるかは各人が自由に決めるべき事柄のはずであり、公権力がある集団に属する人々の人格形成の基礎を特定するには、非常な慎重さが求められるはず」と述べる。

金は、毛利の見解を個人的法益説に対する批判と受け止めて、遠藤比呂通の見解を参照して、ヘイト・スピーチは個人的法益のみならず社会的法益をも考慮して規制すると応答している。納得である。だが、しかし、と付け加えておきたい。

というのも、毛利は「ヘイトスピーチ規制が困難だという理由はまさにこの点にある」、「その認定のためには、彼ら彼女らが日本社会において置かれてきた特殊な事情を考慮に入れる必要があるはず」と述べる。

つまり、毛利は「個人主義の建前」からヘイト・スピーチ刑事規制を否定する論旨を展開している。この主張に、金は反論していない。

私は毛利の主張は成り立たないと考える。

1の理由は次の通りである。

ヘイト・スピーチを刑事規制することは「公権力がある集団に属する人々の人格形成の基礎を特定する」ことではない。

まったく逆である。

ヘイト・スピーチ行為者が「ある集団に属する人々の人格形成の基礎を特定する」ことによって、当該集団や個人を攻撃するのである。つまり、「各人が何を人格形成の核に据えるかは各人が自由に決めるべき事柄のはず」なのに、ヘイト・スピーチ行為者はこれを否定し、攻撃するのである。だから、処罰するべきなのだ。個人主義を否定する行為に対する非難こそ必要である。

2の理由は、補足的な理由だが、次の通りである。

フランス刑法のヘイト・スピーチ処罰規定がわかりやすいのだが、次のいずれも処罰対象となる。

1)           犯行者が、ユダヤ人をユダヤ人であると認識して、ユダヤ人であるがゆえに差別を煽動した場合。

2)           犯行者が、非ユダヤ人をユダヤ人と誤認して、ユダヤ人であるがゆえに差別を煽動した場合。

3)           犯行者が、非ユダヤ人を非ユダヤ人と認識して、ユダヤ人でないがゆえに差別を煽動した場合。

フランス刑法のように明示していない国でも、刑法における「錯誤論」は広く知られている。人間を熊と見間違えて銃を発射して殺した場合に、殺人罪になるのか傷害致死罪になるのかそれとも器物損壊罪になるのか、といった議論である。法学部の1年か2年で学ぶことだ。法律家ならば刑法における錯誤論を知らないと言うことはあり得ない。

ここでは、「被害者がユダヤ人であるか否か」が問題なのではない。「犯行者が被害者をユダヤ人であると認識したか否か」が問題なのである。

このように、ヘイト・スピーチを刑事規制することは「公権力がある集団に属する人々の人格形成の基礎を特定する」ことではない。

ヘイト・スピーチを刑事規制することは「公権力が、<犯行者が、ある集団に属する人々の人格形成の基礎を特定し、あるいは誤認し、これを攻撃しようとしたこと>を、特定し、認定する」ことである。

3の理由は次の通りである。

毛利は「個人主義の建前」からヘイト・スピーチ刑事規制を否定する論旨を展開している。

このような突拍子もないことを、毛利はいったいどうやって思いついたのだろうか。信じがたい話である。

イギリス、フランス、アイルランド、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、イタリア、スペイン、ポルトガル、スイス、オーストリア、ドイツ、リヒテンシュタイン、アイスランド、デンマーク、ノルウェー、スウエーデン、フィンランド、私が知っている西欧諸国はすべて個人主義を採用しており、同時にすべてヘイト・スピーチを処罰する。個人主義の国はヘイト・スピーチを処罰する。当たり前のことである。

にもかかわらず、毛利は「個人主義の建前」からヘイト・スピーチ処罰に疑問をさしはさむ。気が遠くなる話だ。

個人主義だからヘイト・スピーチを処罰できないという主張は毛利だけではない。憲法学者の齋藤愛や駒村圭吾も、個人主義を理由にしてヘイト・スピーチ処罰に疑問を示してきた。これに対して、私は繰り返し反論してきた。憲法学者は近代法における個人主義を理解していないのではないか。今後も繰り返し指摘しなければならないのだろう。