Sunday, August 04, 2019

「表現の不自由」展中止事件に寄せて


愛知芸術祭(あいちトリエンナーレ2019)における「表現の不自由」展中止事件は、日本という国の「表現」をめぐる混迷と無責任ぶりを再確認させる事態であった。在外の私には、日本における議論状況が今ひとつよくわからないため、本件について正面から論じることは難しい。



事件の経過と本質的な問題点については、すでにいくつかの声明が出されている。署名運動も行われている。

「表現の不自由・その後」実行委員会


日本ペンクラブ


日本軍「慰安婦」問題解決全国行動


基本的にはこれらの声明に賛成である。基本的には、というのは、小さな点では認識が異なる部分もあるからだが、本筋はこれらの声明に尽きていると思う。



以下では、私なりに重要と思う点を、今後の議論につなげるために書き留めておきたい。



第1に、そもそも愛知芸術祭における「表現の不自由」展の位置づけがよくわからないというか、まともな位置づけがなされないまま事態が進行したことが残念である。

津田大介芸術祭監督は、開催以前にも、問題が浮上した後も、「実物見て、判断する場を」と述べつつも同時に「実行委員会はこの展示に賛否を表明しない」という趣旨のことを繰り返していた。これは「表現の不自由」展全体のことだが、実際には平和の像(少女像)のことだ。このことは、少女像が提示している問題(そこには日本軍性奴隷制をめぐる論争が含まれる)についての立場表明をしないという意味である。

換言すると、ある作品を芸術祭で展示するに際して最高責任者である芸術祭監督が作品評価を控え、いろいろ並べておきますから見る人たちが自由に判断して下さい、と述べている。だから、河村名古屋市長が「慰安婦は事実でない可能性がある」「日本国民の心を踏みにじるものだ」と騒ぎ立てたのに対して、津田芸術監督は、事実であるか否かについては何一つ言及せずに、「関係者にご迷惑をおかけしました」と応答した。このことがマスコミで報道されたため、「慰安婦はいなかった」論に勢いをつける結果となった。



第2に、主催者(監督、実行委員会、博物館であれば学芸員)による作品評価抜きに、「ともかく展示しますので、みなさんご覧になって判断して下さい」という展覧会はもちろんあり得る。初めて展示される作品で、その評価が難しい場合、評価が分かれることが強く予測される場合である。

しかし、少女像はこれとは違う。評価が大きく分かれたのは、以前からのことであって、しかもそれは芸術作品としての評価と言うよりも、政治的論争ゆえの評価の分岐・対立であり、日韓という国家間の政治対立である。これだけはっきりと評価が分かれ、政治問題となってきた作品を展示するに当たって、主催者の評価抜きに「みなさん、どうぞ」などということはあり得ない無責任である。

津田芸術監督の事前と事後の発言、及び関係者の声明を見ると、ひたすら「表現の自由」だけが語られている。そこには「表現の責任」という観念が欠落している。私は長年「表現の自由だけを議論すべきではない、表現の自由と責任を同時に議論するべきだ。憲法21条と12条を議論すべきだ」と主張してきた。

前田朗「表現の自由と責任 : 博物館法における社会的責任」ポルノ被害と性暴力を考える会編『森美術館問題と性暴力表現』(不磨書房、2013年)

前田朗『メディアと市民――責任なき表現の自由が社会を破壊する』(彩流社、2018年)


ところが「表現の自由」だけを語るジャーナリストや憲法学者からは、私の見解は無視されてきた。明確に拒否された場合もある。たまたまそうなったのではなく、意識的自覚的に「責任なき表現の自由」が語られてきた。残念ながら、その延長上に今回の事態がある。

「すべての表現を自由にして、観る者が判断するべきだから、少女像を撤去すべきでない」という主張は、「慰安婦の真実展も同じ会場に並べるべきだ」「南京大虐殺はなかった展に税金を支出するべきだ」「ヘイト・スピーチ・パフォーマンス展をやるべきだ」という話につながってしまう。

表現の自由についてまじめに考えたことのある者なら、表現の責任も考えるはずだ。そして、アーティストの表現の自由と、学芸員(監督、実行委員会)の表現の自由についても考えるはずだ。それが十分成されなかったのが今回の事態である。だから、津田芸術監督は「私の責任です」と軽々しく述べて、展示を中止させ、自分の地位だけは守った。今後は権力におもねり、忖度しながら遊泳していくのだろう。



第3に、中止の理由があいまいなままである。

最終的には安全性の確保が理由とされた形になっているが、そのための警備強化や犯罪捜査がきちんとなされていない。都合の良いときだけ「テロを許すな」と叫びながら、簡単に「テロ予告に屈して中止した」。

河村市長は「慰安婦は事実でない可能性がある」「日本国民の心を踏みにじるものだ」「日本政府の見解と違う」と主張し、菅官房長官も公金支出に言及した。この結果は明白だ。今後、「慰安婦」問題に関連して、公金支出は否定される。公共空間における展示も拒否される。公民館における「慰安婦」問題集会の施設利用も拒否されていくだろう。

こうした事態を放置しておくと、あらゆる公金支出に話が及ぶ。国立大学の授業では「慰安婦」問題を正面から取り上げることは難しいと聞く。今後は私立大学でも同じ事になるだろう。私学助成金を受給している大学では政府の見解と異なる授業をするな、という異様な主張が根拠を手にした。となると、学術研究費の問題にも波及する。

「政府の見解と異なる」という理屈がまかり通ること自体、あってはならないことだ。実際には、安倍首相の個人的信念を最優先している。ここでも「国家の私物化」が起きているのだ。



第4に、さかのぼって、どのように準備・実施するべきだったのかも書き留めておこう。学芸員ならば、すぐに思いつくレベルの話だ。

津田芸術監督は「想定を超えた」という表現をしたようだが、これも無責任な言い訳に過ぎない。いま、日本で少女像を公共空間で展示することがこうした反応を引き起こすことを予想できなかったなどというのは、あまりに幼稚で無責任である。まともな学芸員がついていれば、事前に対策を練っていたはずだ。

まずは「棲み分け」である。展示のブロック化、エリアの設定、入場者の限定などの方法がある。それから、窓口の一本化である。今回で言えば、異議や苦情の電話先をまずは津田芸術監督(及び/又は「表現の不自由」展実行委員会)にしておくことだ。対応能力のない現場職員に押しつけてはならない。さらに、現場での対話方式である。実行委員が会場に立ち会って、入場者に説明や応答をする。できれば、作者、実行委員会、入場者の討論の場を設ける。

方法はいろいろある。ただ、公的な場、自治体主催、公金支出のトリエンナーレで、こうした方法を採用するのは容易ではない。だから、さぼったのかもしれない。

前田朗「<博物館事件>小史」ポルノ被害と性暴力を考える会編『森美術館問題と性暴力表現』(不磨書房、2013年)

今回の事態は、これまでの議論の積み重ねを一気に無にしたと言って過言でない。残念だ。