Monday, August 12, 2019

生涯かけての懺悔とラブレターと


彦坂諦『亜人間を生きる 白井愛たたかいの軌跡』(「戦争と性」編集室)


8月12日はスイスの休日のため人種差別撤廃委員会の審議はなく、国連欧州本部にも入れない。レマン湖畔のモンレポ公園のベンチで、400頁の大著を通読した。


著者の彦坂は『ある無能兵士の軌跡』全9巻、『男性神話』、『餓死の研究』等の著者だ。1933年の生まれだ。

白井愛(浦野衣子)は、かつてフランツ・ファノン『地に呪われたる者』やポール・ニザン『トロイの木馬』の翻訳者にして、1979年以後、『あらゆる愚者は亜人間である』『新すばらしい新世界スピークス』にはじまる一連の著作で、「根源的な差別の本質」をえぐりだし、「世間」とたたかい続け、2005年に癌で他界した。1934年の生まれだ。

生涯の研究者仲間であり、友人であり、恋人であり、師匠であり、事実上の「共著者」であった白井愛への、痛切な愛と、痛恨の反省をこめて、彦坂は、白井の人生を辿り直し、白井の作品を「弟子」として「解説」し、「使徒」として伝導する。「そして、使徒っていうのはかならず裏切るものときまってるんですよ」と論難されたとおりに裏切りの使徒として。だが彦坂は、白井の思い出を限りなく果てしなくどこまでも愛おしく抱きしめながら、「解説」し伝導せざるを得ない。自分で選択したと断言はできないにしても、「この道しかなかったんや」。


1930年代生まれの人間は第二次大戦を少年少女として体験し、戦後の新しい社会を生きてきた年代だ。大江健三郎、小田実、井上ひさしをはじめ、多くの作家がこの年代にいる。一方に石原慎太郎、江藤淳もいれば、他方に李恢成、梁石日らもいる。私自身がもっともよく読んできた文学者の世代である。1955年生まれの私の青春時代に彼らは作家デビューしていたからだ。彦坂も白井も同じ世代である。


いかなる論評もなしえないような本について語ることは止めて、読者は沈黙するべきだろう。

彦坂の著書はいくつか読んだことがあるものの、(何冊かは所持していたはずだが)白井の著書を読んでいない私には、感想めいたことを書くこともためらわれる。何を書いても、彦坂から、「それは違う」と指摘されるだろう。何を書いても、彦坂を呆れさせ、落胆させるにちがいない。


とはいえ、若干の読書感想文だけはメモしておきたい。


白井の著書を手にした記憶はある。たぶん、何かの講演会や市民集会の折に、受付脇の販売コーナーなどで購入したのだろう。だが、読んだ記憶はない。自宅か研究室のどこかに眠っているはずだ。「亜人間」が、「人間」より一段階低い存在とされ、差別される存在であることは予測できるが、彦坂が解説するような意味であったことは知らなかった。『あらゆる愚者は亜人間である』を読んでいれば、少なくとも、白井が何をどのように批判し続けたのかを理解できていたはずだ。また、彦坂のいくつかの著書を読んだ中に、白井への言及があったはずだ。そこを読み飛ばしていたのだろうか。


フランス文学研究の世界から「追放」されて「亜人間」となった白井と、ロシア研究の世界から「脱落」して「亜人間」となった彦坂の、二人の人生は、二人を排除した世界への異議申し立ての人生となった。「この社会における異分子として生きることを自分自身の宿命として選びとった」白井は、「宿命とは、自己のもっとも深いところでの選択、生涯を賭けた選択のことであろう」という。白井と彦坂の人生の選択、決断、たたかいが、私によく理解できないのは、その出発点としての選択にある。


長沼訴訟における日本で唯一の自衛隊違憲・札幌地裁判決に出会って人生のコースを変えた私は、法学部卒業後、大学院に進んで、学者、大学教授を目指した。理由は簡単だ。平和運動、人権運動、反差別運動をたたかうことである。この目的が、それ以来40年間、終始変わらぬ私の研究・教育・運動・趣味のすべてである。だから、大学院の研究会における私の反差別の報告は、ある先輩から「君、妬みでモノを言ってはいけない。そんなものは学問ではない」とばっさり切られた。しかし、反差別を止めるわけにはいかない。反差別と人権をあからさまに徹底することにし、研究テーマは「権力犯罪と人権」である。おのずと博士後期課程を終了しても職はなく、それどころか母校から追放の憂き目に遭った。おまけに一番大切な人を癌で失って酒浸りとなり、転落する一方であった。3年間、呑みつぶれていた。

法学研究の世界のどこにも行き場がなくなった私に非常勤講師の口をきいてくれたのは、別の大学、別の専攻分野の教員だった。先輩でも、研究会仲間でもなかったのに、たまたま私の研究を知っての好意だった。おかげでこの世界の片隅に引っかかって生きのびた私は4年後に、東京都の一番西の外れにある小さな美大に職を得た。法学部ではなく、美術とデザインの学生に教養科目を教えることになった。就職が決まって喜んでいる私に、ある先輩は「君、そんなところに行くのか」と冷笑した。

ところが、「そんなところ」は自由で伸びやかで、ワクワクする空間であった。研究環境は最悪だが、学者と裁判官と検察官と弁護士しか知り合いのなかった私にとって新たな世界であり、ここで私なりの生き方、研究スタイルを作ることになった。他大学に移るチャンスは何度かあったが、本当は飛びつきたいようなありがたいお誘いを返上するだけの理由が、ここにはあった。おかげで30年この場で人生を満喫してきた。そして何より、目的に打ち込むことができた。平和運動、人権運動、反差別運動である。このために研究者になったのだ。これができないなら、辞めるだけだ。

この間、縁あって、日本社会でマイノリティとして、在留資格で差別され、国民年金で差別され、出入国管理で差別され、高校無償化除外で差別され、ヘイト・スピーチの標的とされてきた人々が必死の思いでつくってきた大学校法律学科の非常勤教員もやらせてもらっている。今年で20年になる。これは私の誇りである。法律学科卒業生のうち21人が弁護士になった。私の教え子に日本人弁護士はいない。すべてマイノリティの弁護士だ。これは私の名誉である。こうした機会を与えてくれた大学校関係者と学生達に感謝、感謝である。


このように私の個人史を書いたのは、なぜか。浦野衣子が大学院修了後に専任教員になれず、非常勤講師にとどまったことを主たる契機として、欺瞞的な研究者の世界を批判し、世間を批判し、「亜人間」という言葉を編み出して、白井愛に変貌し、批判の刃を研ぎ続けたことに、半ば共感しつつも、半ば理解しかねるためだ。というのも、浦野衣子は何をしたかったのか、これがまったくわからないのだ。学者になりたかった、教授になりたかった、それはわかる。で、それで何をしたかったのか。それがまったくわからない。400頁に及ぶ彦坂の著書を読んでもわからないのだ。彦坂自身についてもそうだ。ロシア文学者になりたかった、学者になりたかった、教授になりたかった。で、それで何をしたかったのか。

学者になりたい、教授になりたいという大学院生、若手研究者をたくさん見てきた。その通り、教授になった者をたくさん見てきた。その半ばは教授になることが目的で、それゆえ教授になって以後、ろくに研究をしていない。若手の時代に書いた論文をまとめて著書を1冊出して、それ以後は入門書や解説書を書くか、御用学者になるか。セクハラ教授になって消えていった者もいる。

(もちろん、誠実に研究し続けている者も多数知っている。尊敬すべき先輩研究者、後輩研究者も多数いる。)


『亜人間を生きる 白井愛たたかいの軌跡』は、「亜人間」とそれを生み出す社会システムの徹底批判に飽くなき人生を捧げた白井愛の弟子にして同伴者でありながら、裏切りの使徒となったとされる彦坂の「たたかいの軌跡」である。

自己を切り裂くように審問し、哀れみや嘲笑の対象とされることも厭わず、白井に向き合い、自分に向き合うことで、「自分をおしつぶそうとするもの」に対して抗い続けるたたかいの宣言である。

1933年生まれの彦坂が、まだ、かくも精力的に、かくも誠実にたたかい続けていることには、頭が下がる。だが、白井から彦坂へ、あるいは本書発行者の谷口和憲へと手渡されたバトンに、果たして受け手はいるだろうか。