Thursday, December 02, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(189)フランスの宗教的ヘイト・スピーチ法

光信一宏「フランスにおける宗教冒涜表現の規制」『宗教法』第38号(2019年)

はじめに

第1章         宗教冒涜罪

第2章         「信条の尊重に対する権利」と民事規制

第3章         出版自由法にもとづく規制

むすびにかえて

フランスのライシテ(政教分離)原則はよく知られるが、だからと言って宗教冒涜表現規制が認められないわけではなく、歴史的にも論争が続いてきたし、現在も裁判所で議論が続いている。

光信によると、古くは1254年のルイ九世の王令に始まり、フランス革命までの間、宗教冒涜を禁止する法令が多数出されたという。ヴォルテールの名とともに知られる1766年のラ・バール事件も冒涜罪に関する事案であり、宗教冒涜罪の廃止につながったとされる。1789年の人権宣言を受けて、1791年の刑法典で宗教冒涜罪は廃止された。しかし、1819年の法律で復活するなど紆余曲折を辿る。

1970年代、映画、テレビ、著書などでの表現が論争を招き、人格権として「信条の尊重に対する権利」が主張され、80年代以後、裁判所がこれを認めるようになった。「アヴェ・マリア」事件では、全裸の女性が縄で十字架に縛られた広告が問題となった。1984年の判決は「公衆の往来する場所における人目につく十字架シンボルの表示は、突然、異論の余地のある営利広告に否応なく出くわす人々の信条の内奥を理由なく暴力的に侵襲するものであり、明らかに違法な侵害である」とした。

「見たくない権利」と呼んでしまうと単純化しすぎだが、宗教的感情を傷つけられることについての法的表現である。

1881年の出版自由法(1972年の人種差別禁止法)は一定のヘイト・スピーチを犯罪とする。名誉毀損、侮辱に加えて「差別・憎悪・暴力の扇動」が含まれる。出版自由法による規制の内、宗教冒涜に関する事例は「聖なるコンドーム」事件、マリテ+フランソワ・ジルボー社抗告事件、ウエルベック事件、ムハンマドの風刺画事件など著名事件が相次いだ。光信はこれらの判例を紹介し、分析している。

光信の結論は次の通りである。

「表現の自由の制限には法律の明文の根拠が必要だが、ここにいう法律とは出版自由法であり、規定の文言が不明確な民法典1382条は除外される。そして神や宗教を汚す表現は信者個人や信者集団を攻撃する(宗教的)ヘイトスピーチと概念上、区別されるべきであり、信者の宗教的感情を傷つけたとしても、なお表現の自由の範囲内にある。『好意的に見られ、あるいは無害または些細であるとみなされる情報もしくは観念だけでなく、国家または一部の市民をいらだたせ、不快にさせ、あるいは不安にさせる情報もしくは観念についても、表現の自由が認められる。』(欧州人権裁判所)ことを確認しておきたい。」

光信論文は、欧州人権裁判所やイギリスについての村上論文と合わせて読むと、参考になる。

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/10/blog-post_7.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/10/blog-post_66.html

宗教的ヘイト・スピーチについて私は十分研究できていない。

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/10/blog-post_40.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/02/blog-post_19.html

このため、宗教的ヘイト・スピーチをどう扱うべきかについて私自身の見解を提示していない。私が論じてきたのは、主に人種主義ヘイト・スピーチを中心に、人種、皮膚の色、世系に関連する部分だ。ジェンダーやLGBTも重要だ。刑事規制や公共施設の利用に関して、どこまでを射程に入れるのが良いか、私自身も十分詰めているわけではない。

宗教については、第1に、光信論文も明示しているように、宗教冒涜罪との関連があり、不当な弾圧や規制の歴史的経緯を想起せざるを得ない。第2に、新宗教、新々宗教と言われたように、現代社会に登場している宗教には、また別の問題もあるため、なかなか判断しにくい。第3に、人種や皮膚の色は個人では変更できない属性であるが、宗教はどうか。個人が自由に変更できるとも言い難い面があるが、変更できないわけではない。

他方で、当該社会におけるマジョリティの宗教とマイノリティの宗教の関係を考えると、マイノリティの宗教に対するヘイト・スピーチの被害(害悪)をきちんと評価する議論がなされていないと思う。

宗教批判の自由や、パロディの自由、そして無信仰の自由も含めて保障するべきだが、その議論が通じるのは、当該社会に主要な一つの宗教(キリスト教)だけが存在している間の話にすぎない。フランスにイスラム教が増加している現在、キリスト教徒によるイスラム侮辱には到底容認できない事例が多いのではないか。宗教テロは許されないと言うが、どちらが先に攻撃をしたのかは再検証する必要がある。ヘイト・スピーチ規制が宗教弾圧になると恐れるよりも、マジョリティによるマイノリティ宗教への差別と迫害をいかに抑制するかを考える必要があるのではないか。

光信論文は、その最後で(上記に引用したように)欧州人権裁判所の判決から引用している。引用内容は納得できるが、これはキリスト教徒の間、あるいはキリスト教徒と無神論者の間の「対等の関係」を前提とした判決ではないだろうか。引用されたHandyside事件は1976年の判決だ。なぜ、ここで1976年の判決を引用するのだろうか。

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/09/blog-post_6.html

私は欧州人権裁判所の研究をしてこなかったので断言はできないが、欧州人権裁判所の判例は必ずしも安定したものではなく変遷を重ねているし、先例を遵守すると決まっているわけではないという指摘を読んだことがある。もう少し勉強してからあらためて考えたい。