三浦綾子『母』(角川文庫)
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小林多喜二の母セキが88歳の時点で、主語「わだし」として語るスタイルで、多喜二とその家族を描いた作品である。1992年の作品なので、いまから29年前になる。三浦綾子は『氷点』(1965年刊)でデビューし、1999年に亡くなるまで作家活動を続けたが、本書は晩年の作品の一つとなる。
この作品を初めて読んだ。三浦綾子が小林多喜二を描いたことは、当時、新聞で読んだのに、作品を手にすることはなかった。私の「非国民がやってきた!」シリーズの第2作『国民を殺す国家』(耕文社)において多喜二を取り上げたので、多喜二全集を購入するとともに、多喜二に関する重要文献を十数冊読んだが、その時にも本作を読んでいない。
セキは1873年に秋田県に生まれ、1886年に小林末松と結婚し、1903年に次男・多喜二誕生、1907年に小樽に移住。多喜二がプロレタリア作家として活躍したのが1920年代で、1933年に治安維持法違反容疑で逮捕され、築地署で虐殺された。セキ60歳、多喜二30歳を迎える年である。セキは1961年に87歳で他界した。
作品は全7章から成る。
第一章
ふるさと
第二章
小樽の空
第三章
巣立ち
第四章
出会い
第五章
尾行
第六章
多喜二の死
第七章
山路越えて
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年代順に小林家の出来事、家族の人柄、その生涯をじゅんじゅんと語る構成だから、多喜二の生涯を知る者には、第一章から第六章までは、タイトルを見ただけであらすじがわかる。語られるエピソードの多くはすでに知られていることが多いが、巧みな小説として、かつセキの語りとして描かれているので、心にしみる。多喜二とタキ(本作品ではタミ)との出会いはとても切ない気持ちになる。
私の両親は、多喜二が作家として活躍した1920年代に、札幌に生まれ育った。ともに地主の一族出身なので、多喜二の『不在地主』の世界は私にとってもすぐ近いところにあった。小樽も少年時代に何度も遊びに行った町だ。タキの家族がすごし、後にセキが暮らすことになった朝里の海水浴場にも、少年時代、毎年のように行った。当時は多喜二を知らなかったが。セキは1961年5月に亡くなっているから、私が5歳の時だ。また、タキは2009年に101歳で亡くなった。つまり、多喜二の時代はそんなに遠くない。私たちは多喜二の時代と地続きの世界に生きている。赤狩り、思想弾圧、排除、不当逮捕、長期身柄拘束、拷問……日本はどれだけ変わったと言えるだろうか。
多喜二を虐殺した警官が後に警察署長になったり、叙勲され、昭和天皇から勲章をもらったこともよく知られる。虐殺の時代の主役だった昭和天皇、今ではその孫が天皇に君臨している。
「第一章から第六章までは、タイトルを見ただけであらすじがわかる」と書いたのは、第七章はタイトルだけでは内容の推測ができないからだ。ここは多喜二の物語ではなく、セキの物語だけだ。朝里に暮らしたセキが小樽シオン教会の牧師との出会いからキリスト教に目覚めて行く。受洗はしなかったようだが、自分の葬式を教会で行うよう、あらかじめ家族に依頼している。セキが「そらでうたえるように練習」した讃美歌が「山路越えて」であり、第七章のタイトルになっている。讃美歌の多くは西洋でつくられたが、「山路越えて」は日本人がつくったという。この歌をうたうと、ふるさと秋田を思い出す。安らかになる。
多喜二は共産党であり、セキも晩年、共産党に入党したが、同時にキリスト教に惹かれた。教義にではなく、シオン教会の牧師の人格に惹かれたようだが、そこからイエスと多喜二の類比に至る。
「わだしは、多喜二が聖書ば読んでたことが、これでよくわかった。とにかくね、イエスさまは貧しい人を可愛がって下さったのね。」
「…十字架にかけられるのね。両手両足に五寸釘打ち込まれて、どんなに痛かったべな、どんなに苦しかったべな」。
「わだしはね、多喜二が警察から戻って来た日の姿が、本当に何とも言えん思いで思い出された。多喜二は人間だども、イエスさまは神の子だったのね。神様は、自分のたった一人の子供でさえ、十字架にかけられた。神さまだって、どんなにつらかったべな。」
かくして三浦綾子はセキをマリアに類比させる。セキは多喜二の母であり、すべての子どもをもつ母であり、<母>となる。