桧垣伸次「政府言論とヘイト・スピーチ」『福岡大学法学論集』61巻4号(2017年)
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『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察――表現の自由のジレンマ』(法律文化社)の著者による研究である。政府は、表現を規制する主体となるだけでなく、自身が表現の主体となることがあり、これを「政府言論」と呼んでいる。「政府がヘイト・スピーチを批判する声明を出す場合などは、見解差別禁止原則は適用されない」。「しかし、他方では、政府が差別的なメッセージを発することもありうる。また、私人が政府の言論を通じて差別的なメッセージを発することもありうる」という問題の考察である。
私人によるヘイト・スピーチと政府言論について、テキサス州で、車のナンバープレートに南軍の旗を強調したプレートを申請したところ、州の自動車管理局の委員会がこれを認めなかったため、提訴されたWalker事件判決が紹介・分析される。これが政府言論にあたるのか否か、パブリック・フォーラムに当たるのか否かが問われた。桧垣は次のように述べる。
「問題となる言論が政府言論であれば、政府は、私人がそれを利用して差別的なメッセージを発することを拒否できる。このことは、従来の政府言論の法理から当然の結論である。本件では、ナンバープレートが政府言論に当たるか否か、つまり政府言論の射程が問題となった本件は、政府が、差別的なメッセージが拡散することを防止できる範囲が問題となった事例といえる。その意味で、政府言論の範囲を画定するための基準の検討は重要である。政府言論と私人の言論が混在する領域において、両者をどのように区別するのかについては、今後も問題となるだろう」。
次に政府によるヘイト・スピーチと平等保護条項について、「表現の自由条項は、政府言論に適用されない。しかし、どのような政府言論でも無制限に許されるわけではない。政府言論の法理の射程には制限があると考えられている」。政府の表現が、修正1条以外の憲法の条項、特に平等保護条項に違反している場合が論じられる。NortonやFormanの見解の紹介である。桧垣は次のように述べる。
「平等保護条項は、政府が人種差別的なメッセージを発することを禁止していると解することができる。それゆえ、平等保護条項は、政教分離条項とともに、政府言論の射程を限定する規範であると考えることができる。もちろんその射程は問題となるが、Formanが指摘するように、政府によるヘイト・スピーチの場合には、平等保護と表現の自由の緊張関係は存在しない点で、私人によるヘイト・スピーチとは異なる。その意味で、私人によるヘイト・スピーチよりは広い範囲で制限できるであろう。」
最後に桧垣は、2016年のヘイト・スピーチ解消法は、「政府自身がそのような内容のメッセージを発さないことはもちろん、解消に向けた啓発活動など、積極的な行為を要求している。私人がかかわる言論が政府言論とみなされる場合には、そのような言論を拒絶することができる。このように、ヘイト・スピーチ解消法は、規制か否かではなく、第3の道である政府言論として意義があるといえる」という。
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政府言論については、これまでにいくつもの論文が書かれているが、私にはその意義がはかりかねた。
政府が差別表現やヘイト・スピーチをしてはならないことは、憲法13条、憲法14条から言って当然のことである。人種差別撤廃条約第2条からも当然のことである。自ら差別発言をしないことだけではなく、差別行為に加担・関与しないこと、差別行為をやめさせることはもとより条約上の義務である。以上のことを抜きに、政府言論を表現の自由の問題として位置づけること自体、疑問である。表現の自由はもともと個人の自由であって、国家の自由ではない。政府言論を表現の自由の問題とするのはそもそも無理がある。問題設定が間違っていないか。
桧垣は、後段の平等保護条項の記述で、政府言論には一定の制限があることを提示する。結論には賛成だが、私としては、もともと「言論」と位置付け、表現の自由として議論することに疑問がある。
もっとも、ナンバープレートのような私人がからむ事例は、単純には解決できない点も残されているようだ。今後の検討課題である。