桧垣伸次「ヘイト・スピーチ解消法と政府言論――非規制的施策の可能性」『福岡大学法学論集』63巻2号(2018年)
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前稿「政府言論とヘイト・スピーチ」に続いて、アメリカにおける政府言論に関する理論を紹介・検討し、その観点から日本のヘイト・スピーチ解消法を評価する試みである。解消法については強い批判もあり、評価が必ずしも定まっていないが、「筆者は、同法は、政府が、ヘイト・スピーチについて、その立場を明確にした点で意義があると考える。政府が『ヘイト・スピーチは許されない』というメッセージを発することにより、ヘイト・スピーチを抑制する効果が期待できる。しかし、それは同時に、特定の立場の表現を委縮させうる点で問題となる」という。
桧垣は、解消法の内容を確認し、これに対する研究者の評価をいくつか確認する。そのうえで、アメリカにおける政府原論の法理として、主にCharlotte H. Taylor論文をもとに議論を展開する。Taylorは、政府言論の例として、①政府の職員又は機関による助言的・奨励的意見、②記念する表現、③公教育、④指摘言論への政府の助成及び非パブリック・フォーラムにおける表現の選択的コントロール、⑤勧告・調査声明を挙げて、検討している。
例えば、Taylorは①の検討の中で、「純粋に奨励的な政府原論について、誰の表現の(も?)規制されていないことから、重要な修正1条の問題は生じないと主張する」という。②の記念する表現は、記念碑の設立や祝日の制定、硬貨に刻まれたモットー、切手などの例があり、これらは「市民的価値を形作る」ためになされるもので、「ヘイト・スピーチを抑止するために用いることができると主張する」。
桧垣はTaylor論文を紹介、検討したうえで、政府言論の有用性と同時に、特定の表現を委縮させる点で、政府言論には限界があるという見解もあることを紹介する。桧垣が注目するのは、「政府は、教化(indoctrination)となるような手法を用いてはならない」ということである。
「政府言論による委縮効果を防ぐために、政府言論について、観点差別禁止原則以外の憲法上の制約原理を検討することが重要となる。とはいえ、そのため、国民が特定の思想をもつように教化・強制する場合のような、極端な場合でない限りは、憲法上問題とならないと考えるべきである。何が『教化』にあたるのか、判断は難しい。上記で検討したように、政府言論の類型は多様であり、規制との距離についても濃淡がある。そのため、政府言論の類型に応じて、その類型、効果等を検討して、どのような制約があるのかを探ることが重要である。」
最後に、桧垣は「本稿では、非規制的手法という『第3の道』の可能性を指摘したに過ぎない。具体的な手法およびその限界については、別稿で検討したい」という。
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桧垣の2論文のおかげで、政府言論を取り上げる意味、その内容がかなり理解できた。解消法の路線と政府言論の法理を重ねることで一つの筋道が引けることもわかった。具体的な手法については今後の期待である。
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私に理解できないのは、なぜヘイト・スピーチの問題を政府言論の問題として位置づけなければならないのか、である。
第1に、政府が差別に加担してはならないことは憲法13条、14条の当然の帰結である。政府が差別やヘイトを非難するべきことは、差別やヘイトをなくす努力をするべきことは人種差別撤廃条約2条の要請であり、日本政府の義務である。桧垣の著書はヘイト・スピーチをもたらす差別問題に着目し、反差別の法理論を構築しようとしていた。なぜ、2論文ではその姿勢が打ち出されないのだろうか。
第2に、政府言論とヘイト・スピーチを修正1条の適用レベルで考えているが、日本国憲法21条の議論になっていない。桧垣は、他の多くの憲法学者と同様に、修正1条と憲法21条が同じ内容、同じ原理で成立し、同じ解釈をするべきという虚構の前提から出発しているように見える。修正1条の条文形式から言えば、政府言論を論じる余地があるのかもしれないが、憲法21条は違うだろう。憲法第3章は「国民の権利及び義務」の章であり、憲法21条は表現の自由を定めている。これは諸個人の自由としての表現の自由の保障規定であって、政府言論とは関係ない。政府言論を律するのは民主主義であり、人間の尊厳であって、個人の表現の自由の法理ではないのではないだろうか。