Wednesday, November 24, 2021

ヘイト・スピーチ法研究の最前線09

桧垣伸次・奈須祐治『ヘイトスピーチ規制の最前線と法理の考察』(法律文化社)

「第9章 ヘイトスピーチと尊厳」(玉蟲由樹)は、『人間の尊厳保障の法理――人間の尊厳条項の規範的意義と動態』(尚学社)の著者によるヘイト・スピーチへの応用である。同書はずっと以前にざっと読んだ。同書ではヘイト・スピーチには論及していなかったが、今回の論文でヘイト・スピーチについての尊厳論を読むことができた。

玉蟲は、ルドロンの尊厳論を一瞥した上で、ドイツにおける人間の尊厳論の一般的特徴を論じ、人の原理的な法的平等、人間の尊厳の「保護」を整理し、次いでヘイト・スピーチ規制について検討する。ドイツでも人間の尊厳論の検討がなされるが、「兵士は殺人者だ」事件に代表されるように、集団の保護がドイツ軍などであって、マイノリティではない。ユダヤ人のアイデンティティを保護する局面では尊厳論にも独自の意味があるが、ヘイト・スピーチ一般としては必ずしもそうではない。大集団を対象とした侮辱的表現の場合と、ユダヤ人のように民族的人種的メルクマールと結びついている場合とでは異なる。後者では「個人の名誉や尊厳が侵害されること」がある。

玉蟲は、尊厳侵害説の限界を論じる。第1に、マイノリティの「尊厳」を特別に保護することは「人間の尊厳が禁じる『差異化』に該当しないかが問題となる」という。ユダヤ人に対する侮辱を特別に規制することには限界があるという。「逆差別」論の一種であろう。

2に、玉蟲は、尊厳侵害説の言う人間の尊厳が本当に憲法上の人間の尊厳なのか、と問う。人間の尊厳が絶対性を有するのに対して、相互尊重は他の法益との衡量を要する。この矛盾を解消するには「憲法上の人間の尊厳と法律上のそれとを区別する」ことだという。ドイツ刑法130条の尊厳は、その核心は憲法上の人間の尊厳であるが、「それとまったく同一ではなく、私人間における尊厳の相互尊重を図るものとして立法者が導入した法律上の人間の尊厳」だという。

玉蟲によると、憲法上の人間の尊厳を前提とするとヘイト・スピーチの範囲をかなり狭めるので、むしろ法律によって保護される尊厳と見るのが妥当だという。

最後に玉蟲は、「このようなドイツの人間の尊厳論に依拠した主張は、憲法13条を根拠として、日本国憲法上も十分に成立しうるものだと考える」という。それゆえ、『人間の尊厳保障の法理』に立ち返ることになる。

私も、ヘイト・スピーチの保護は、民主主義と人間の尊厳を基本に理解するべきだとしてきたので、玉蟲の議論は大いに参考になる。最後の「ドイツの人間の尊厳論に依拠した主張は、憲法13条を根拠として、日本国憲法上も十分に成立しうる」という部分をもっと詳細に論じて欲しかったが。

憲法学では、憲法上の人間の尊厳論を否定する見解も多数ある。日本国憲法にはこの言葉がないからだ。憲法第13条は「個人の尊重」なので「個人の尊厳は認めるが、人間の尊厳は認めない」という論者も少なくないようだ。

また、玉蟲はドイツの人間の尊厳論を参照するとするが、まさに同じ理由で、「それはドイツの概念であって、日本の概念ではない」と明言する論者も少なくない。

その意味で、人間の尊厳を論じる場合、却って敷居が高くなる面もないではない。

玉蟲は、「憲法上の人間の尊厳と法律上のそれとを区別する」という。これは私は十分考えてこなかったので、これから再検討したい。上の論点と絡めると、「日本国憲法には人間の尊厳が内在する。仮に内在しない場合でも、法律上の尊厳概念を想定しうる」という議論をすることになるのだろうか。

私自身は、もともと人間の尊厳をドイツ法由来とは考えない。ドイツ基本法よりも前に、国連憲章前文、世界人権宣言前文及び第1条に掲げられた言葉である。その後も、人種差別撤廃条約、拷問等禁止条約、女性差別撤廃条約等においても用いられてきた。つまり国際人権法の基本概念である。多くの国の憲法にも書きこまれている。このことを抜きに人間の尊厳を論じるのが日本の憲法学者だ。世界でも日本だけではないだろうか。