三浦綾子『銃口(下)』(小学館)
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「一九四一年一月十日早朝、このようにして、良心的な、勤勉な教師たちが教壇から姿を消した。その数、六十人とも八十人ともいう。これが北海道綴り方連盟事件の始まりであった。」
北森竜太が岩見沢署に拘束され、続いて坂部先生が逮捕される。
上巻では竜太とその家族や友人たちの平穏で幸せな暮らしが語られたが、上巻末尾で竜太が警察に出頭を求められた。下巻ではいきなり竜太は治安維持法容疑者とされ、暗く寒い留置場の住人とされる。乱暴な刑事たちに頭越しに怒鳴られる。誰にも連絡できない。電話も手紙も禁止される。面会も禁止だ。10日たってようやく布団が差し入れられ、心の慰めとなる。1月15日には芳子と結納を交わす日になるはずだったのに、岩見沢署の留置場に監禁されたままである。不安と恐怖と寒さに襲われながら、マルクス主義を知らない竜太は、なぜ逮捕されたのか、ただあれこれと推測し、途方に暮れる。
逮捕から3か月後、1941年4月13日、日ソ中立条約が成立した日に、竜太は旭川署に移送される。この間、まともな取り調べもなく、強引に辞職届を欠かされた竜太は深い虚無感に陥っていた。旭川署で会った坂部先生は拷問と寒さのため、やせ細り、まるで別人だった。だが、坂部先生は投げやりになることなく、「人間はいつでも人間でなければならない。獣になったり、卑怯者になったりしてはならない」と語る。
1941年8月21日、竜太は保護観察扱いで釈放される。ところが坂部先生は亡くなったと聞かされ、自分の部屋に閉じこもる。生きる力を失った竜太をフィアンセの芳子が支える。印刷会社に勤務し始めるや、刑事がやってくる。このため会社を辞めざるを得ない。製粉会社の経理になるや、憲兵が訪ねて来る。ここも辞めることに。
1941年12月8日、開戦の臨時ニュースが流れる。
日本は戦争熱に浮かれているが、仕事のない竜太は、教師として生きるために満州行きを決意し、芳子とともに満州で教師になることを夢見るが、そこへ赤紙が舞い込む。1942年2月7日である。
教師特権の伍長ではなく二等兵として旭川第7師団に入隊した竜太は、満州の安陽で勤勉な兵卒として評価されるが、一等兵や中隊長には恵まれる。だが、虫垂炎で入院中に舞台は移動。別の部隊に入るとそこでは中国における民間人殺害や強姦や死姦を自慢する日本軍・歴戦の勇士がいた。軍隊生活の様子が描かれるが、軍隊経験のない三浦綾子にとっては苦心と勉強のたまものの叙述である。
1942年には「破竹の勢い」だった日本は1943年には日増しに敗色を濃くしていく。10月下旬、竜太は強姦自慢の兵長に殴られ左の聴力を失う。その頃、弟の保志は戦死していた。
1945年8月9日、ソ連軍が越境し、戦闘が始まる。敗走兵となった竜太らは徒歩で挑戦を目指す中、開拓民の集団自決現場を目撃し、次いで抗日派民兵の捕虜になる。ところが抗日派の隊長は、タコ部屋から逃げてきた朝鮮人であった。かつて北森の父親が匿った金俊明である。金俊明は竜太を覚えており、隊員たちを説得して竜太らを助ける。
1945年8月15日、敗戦。日本軍が先に逃げ去り、ソ連軍が攻めて来る危難のなか、金俊明らの命がけの協力のおかげで、竜太らは満州から朝鮮半島へ、そして8月21日、下関港に帰還する。
旭川に帰り、フィアンセの芳子と再会した竜太は教会で結婚式を挙げる。讃美歌494番。
1946年、戦後改革が始まり、治安維持法と特高警察は廃止される。北海道綴り方連盟事件の関係者も教職に復帰し始める。「リンゴの唄」が流れる中、「天皇の人間宣言」が出され、もう「奉安殿」に頭を下げる必要がなくなる。竜太は新たな思いで教師として再出発する。
こうして作品が終わる、はずだが、三浦綾子は最後に1989年2月24日、昭和天皇大葬の日のエピソードを付け加える。
「昭和もとうとう終わったわね」
「うーん、そういうことだね。だけど、本当に終わったと言えるのかなあ。いろんなことが尾を引いているようでねえ……」
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北海道綴り方連盟事件そのものを描いたノンフィクションではなく、上巻は北海道綴り方連盟事件への道、下巻はそこから満州での軍隊体験、敗戦体験、そして戦後の再出発への物語である。
もともと編集者からの依頼は「昭和を背景に神と人間を書いてほしい」というものだったという。
天皇という愚劣な産物が「神」を僭称し、人間を侮蔑し、死なせた時代に、ひたむきに生きた庶民の暮らし、思いを描くとともに、満州での軍隊生活を通して侵略の軍隊・日本軍の残虐さ、罪深さを反芻し、敗戦時の数々のエピソードを通して人間らしく生きることの意味を考えさせる作品である。それだけに「天皇の人間宣言」と1989年の大葬を取り込んだ意味がある。
本書は1990年から93年にかけて雑誌連載され、1994年に出版された。強制連行や慰安婦という言葉が日本による暴力支配として登場するのは、まさに90年代前半に書かれたゆえんだろう。四半世紀を経た現在、日本は歴史修正主義が権力を握り、帝国の正当化、戦争の美化を始め、歴史の偽造がまかり通っている。この作品を出した小学館は、さて、今は。
非国民をつくり出し、人間を押しつぶす社会が堂々と復活している日本で、今後、三浦綾子は読まれるだろうか。どのように読まれるだろうか。