Wednesday, January 26, 2022

非国民がやってきた! 011

三浦綾子『光あるうちに』(新潮文庫)

三浦の自伝「道ありき第三部 信仰入門編」(1970)であり、闘病に明け暮れた青春時代を描いた「道ありき」、三浦光世との結婚生活を描いた「この土の器をも」に続く。

『氷点』の主題が「原罪」であったため、多くの読者から「原罪とは何か」と問われて、三浦は「人間が生まれながらにして持っている罪」と答え続けたが、これでは十分ではない。本書で三浦はずっとこの問いに向き合い、「自己中心」のはかりにたどり着く。

「人のすることは大変悪い」

「自分のすることは、そう、悪くはない」

この2つの尺度で、私たちは考えたがる。三浦はダビデとナタンの逸話を紹介する。他人に厳しいダビデが、同じ基準を自分に差し向けるや、神を恐れてふるえあがることになる。名君ダビデにして、こうだ。まして普通のわたしたちは、と三浦は言う。自分の罪を計る物差しは甘く、人の罪を計る物差しは厳しい。自己中心が罪のもとである。と知りながら、何度も反省しながら、それでも自己中心にとらわれてしまう。こう煩悶し続ける三浦は、「罪を罪と感じないことが罪だ」と認識するが、自らの罪に対する感覚の鈍さに慄然とする。

自己中心は個人にもあるが、あらゆる局面に顔を出す。地位が変わり立場が変わると、その地位や立場に応じて自己中心になる。学生だった自分の自己中心、後に教師になるや新しい自己中心。

社会的にも、自分が属するコミュニティに有利なように考える。家族、町内会、自治体、国家、民族、すべてにおいて自己中心が幅を利かせる。

愛について考える三浦は、性愛を越えて、親子兄弟、友愛、師弟愛、人類愛、神の愛を視野に入れつつ、愛が矛盾し合う場合を持ち出す。「国家への愛が、人類愛と一致することは稀である」という。戦争中の敵性語であった英語使用の禁止を例に、

「敵性言語を使うとはけしからん。非国民だ」

「こんな狭量、排他的なものが、愛国心には含まれている」という。

これも昔からわかっていたことである。幸徳秋水はその帝国主義論で、ナショナリズムが戦争を招き、戦争が非国民を生み出すメカニズムを見抜いていた。帝国主義論の幸徳秋水は大逆無道論の幸徳秋水となり、現に大逆の罪を問われて処刑される。長谷川テルは、戦争に熱狂するナショナリズムの欺瞞を指弾していた。

ナショナリズムが排外主義を呼び寄せるや、まともな人間は非国民にならざるを得ない。たぶん世界共通の現象だろう。

神について論じる三浦は、キリスト信仰に入ってもしばらくは「イエスが神の子である」とは信じられなかったという。イエス自身による「わたしは神の子である」という言葉を極めて重大な言葉として受け止めたのは、

「もし誰かが、あの戦時中に、

「わたしは天皇である」

と言ったとしたら、その人は死刑にされたか、狂人扱いされたことであろう。ユダヤ人にとっては、それよりも、もっともっと厳しい状況で神と人とを区別していたわけである。

このような状況の中で、

「わたしは神の子である」

と言われたイエスの言葉である。」

旧約の予言を成就するためにこの世に送られたイエスの言葉である。