根本猛「差別表現規制をめぐるアメリカ法の潮流:ブラック判決を中心に」『静岡法務雑誌』10巻(2018年)
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一 はじめに
二 ブラック判決
1 事件の概要
2 法廷意見
3 個別意見
三 差別表現をどう評価すべきか
1 表現の自由に関する判例の基調
2 RAV判決
3 ブラック判決の意義と問題点
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根本は、2003年のアメリカ最高裁のブラック事件判決について、法廷意見と個別意見を詳しく紹介し、1992年のRAV事件判決との関連を検討する。ブラック事件判決については、学説上も評価が分かれているが、「できるだけ表現の自由の価値に障らないように結論の妥当性を得ようとしたが、その試みは部分的にしかうまくいかなかったというところであろう」と評する。
表現の自由を研究する憲法学者の圧倒的多数がアメリカ憲法の紹介をしてきたので、既紹介のことが多く、新しい情報は特にないようである。
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根本は最後の「四 結びに変えて―わが国の議論状況・素描」で、それまでの叙述から一転して突如として日本の学説状況について論じる。「憲法学の主流」は「規制反対論」であるとして市川正人、榎透、齋藤愛の見解を紹介する。「規制消極論」として小谷順子の見解に触れた上で、「規制積極論」として師岡康子と私の見解を紹介する。その上で「(四)小括」で、規制に親和的な曽我部真裕、規制反対論として駒村圭吾、宍戸常寿、長谷部恭男の見解を紹介しつつ、規制積極論を批判する。
やや長いが、根本論文の最後の4つの段落を引用する。
「例えば駒村圭吾の、そもそも言論は過激なもので傷つく人がいるから規制すべきだという発想は危険だという発言を受けて、宍戸常寿は合衆国の国旗焼却問題を引きながら、人の心が傷つく表現に対する考え方の違いが米欧の分岐点ではないかと指摘している。
ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。
わが国におけるヘイトスピーチ規制の急先鋒とみられる論者は、厳格審査基準に合格するヘイトスピーチ規制では不十分で、わいせつ表現や名誉毀損などと同様、ヘイトスピーチという憲法の保護外の表現と言うカテゴリカルな規制を求めているように見える。あるいは表現の自由について、直截にアメリカ法からの離脱を主張する。
まさに駒村圭吾がいう、憎悪表現や差別表現はいけないというなら表現の自由の背景には14条の趣旨を反映すべしというような『新たな憲法論』が必要ということになる。もちろん駒村はそれに否定的で、不快だから、傷つくからという言葉狩りにつながると懸念している。」(以上、根本論文74頁)
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すでに何度も指摘してきたことだが、憲法学者の中には、明らかに私を批判しているのに、私の名前も出典も示すことなく、私の文章を引用することもなく、おまけに私の主張を書き換えて批判する例が見られた。私は、こうした当てこすり戦術を、具体的に名指しで批判してきた。
これと違い、根本は私の名前を明示して、私の文章から引用して、批判を加えている。フェアな態度であり、対話が成立するので、歓迎したい。
これまで私の名前を明示して批判したのは成嶋隆と榎透である。成嶋と榎に感謝する。成嶋への私の反論は『ヘイト・スピーチ法研究原論』、榎への私の反論は『ヘイト・スピーチ法研究要綱』参照。榎への反論はこのブログに書いた。
ヘイト・スピーチ研究文献(171a)憲法と憲法学との微妙な関係(1)