Monday, January 31, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(190)根本猛への応答b

根本猛「差別表現規制をめぐるアメリカ法の潮流:ブラック判決を中心に」『静岡法務雑誌』10巻(2018年)

根本は私の見解を紹介して批判している。具体的には次の一文である。

「さらに前田朗は、ヘイトスピーチも含めて表現の自由の規制には「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限られる」とする憲法学通説を引用し、直截にアメリカ法からの離脱を提唱する。」(根本論文7374頁)

これには註が付されている。

(43)前田朗「ヘイト・スピーチ処罰は世界の常識」『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』160(2013)。」(根本論文77頁)

また、前回このブログで引用した文章も、その一部が私への直接の批判となっているので、再度引用する。

「例えば駒村圭吾の、そもそも言論は過激なもので傷つく人がいるから規制すべきだという発想は危険だという発言を受けて、宍戸常寿は合衆国の国旗焼却問題を引きながら、人の心が傷つく表現に対する考え方の違いが米欧の分岐点ではないかと指摘している。

ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。

わが国におけるヘイトスピーチ規制の急先鋒とみられる論者は、厳格審査基準に合格するヘイトスピーチ規制では不十分で、わいせつ表現や名誉毀損などと同様、ヘイトスピーチという憲法の保護外の表現と言うカテゴリカルな規制を求めているように見える。あるいは表現の自由について、直截にアメリカ法からの離脱を主張する。

まさに駒村圭吾がいう、憎悪表現や差別表現はいけないというなら表現の自由の背景には14条の趣旨を反映すべしというような『新たな憲法論』が必要ということになる。もちろん駒村はそれに否定的で、不快だから、傷つくからという言葉狩りにつながると懸念している。」(以上、根本論文74頁)

 以上が根本による私への批判である。

 根本の議論には大いに疑問があるが、反論は次回に回す。

根本から指摘を受けて明らかになったことは、議論にすれ違いがあることである。私の記述の仕方に問題があったようだ。今回はこの点を考えたい。

根本が言うように、私は「「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限られる」とする憲法学通説を引用し」て、これを批判したことがある。これが「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限らず、ヘイト・スピーチを規制するべきだ」とだけ読まれたとすれば、私の文章の書き方が適切でなかったことになる。

 別の個所で、私は「ヘイト・スピーチでは現に結果が発生しているのに、これを認めないのはなぜか」と問いを出し続けてきた。私は『ヘイト・クライム』(三一書房労組、2010年)の副題を「憎悪言論が日本を壊す」とした。『ヘイト・スピーチ法研究序説』(三一書房、2015年)以来、何度も、ヘイト・スピーチは民主主義を攻撃し、人間の尊厳を損なうことを指摘してきた。「結果発生の危険性」を論じたのではなく、「すでに結果発生があったのに、なぜその危険性があるか否かを問うのか」と論じてきた。

 しかし、根本は、私が「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限らず、ヘイト・スピーチを規制するべきだ」と主張していると受け止めている。

 ここでは「危険」と「結果」の理解に差異があるのではないだろうか。私自身の「危険」と「結果」の用法にも混乱があったのではないか。その前提として、ヘイト・スピーチの保護法益をめぐる理解を明確にしておかないと議論ができない。

1に、保護法益である。根本論文は保護法益について論じていないが、刑法学での議論では、ヘイト・スピーチ規制の根拠となる保護法益を、個人的法益と見る見解と社会的法益と見る見解がある。ヘイト・スピーチを名誉毀損型や脅迫型と見れば、個人の名誉が侵害されているので、個人的法益である。ヘイト・スピーチを迫害型や差別助長・煽動型と見れば、社会的法益である。

欧州各国の刑法を見ると、社会的法益に重点を置いているように見えるが、個人的法益に該当する事案を規制している国もある。国際人権法はもともとこうした法益論について明確な答えを出していないと思われるが、国連人権高等弁務官事務所肝いりのラバト行動計画、人種差別撤廃委員会の一般的意見35号、国連ヘイト・スピーチ戦略を見ると、社会的法益に重点が置かれているように見える。ただし、個人的法益を排斥しているわけではないと思う。

刑法学者は、ドイツ刑法を参照して、ヘイト・スピーチを社会的法益で説明するのが通例である。刑法学におけるヘイト・スピーチ論をリードしてきた金尚均は社会参加を否定することに問題性を見ている。「◯◯人は出て行け」「◯◯人はゴキブリだ」といったヘイト・スピーチは、◯◯人の社会からの排除を唱え、◯◯人を人として扱わない、又は二級市民として扱う。つまり、◯◯人の社会参加を否定する。

私自身、ヘイト・スピーチは民主主義や人間の尊厳を侵害するという形で社会的法益に力点を置いてきた。金尚均が言う社会参加と同じことを意味しているつもりだ。その社会の構成員である◯◯人の排除を主張することは、社会参加を否定することであり、その社会に民主主義は成立しえないし、人間の尊厳が冒されている。

ただ、私は、名誉毀損型や脅迫型もヘイト・スピーチとして理解し、直接の攻撃客体となった人物の個人的法益を保護する理解も示してきた。つまり、社会的法益一元論ではなく、社会的法益・個人的法益二元論となる。ここに議論のすれ違いの原因があるかもしれない。『序説』で明示したように、ヘイト・スピーチには多様な類型が含まれるのでそれぞれについて議論する必要がある。これまで私は、ヘイト・スピーチの動機(保護される集団、属性)、実行行為の類型など類型論を提示してきたが、法益論についてのまとまった私見を提示してこなかった。ここは改めて検討する必要がある。

例えば、200910年の京都朝鮮学校襲撃事件刑事裁判で被告人は侮辱罪で有罪となった。これは直接の攻撃客体となった学校法人朝鮮学園に対する侮辱、つまり個人的法益に着目した事案ということになる。しかし、当時、朝鮮学校にいた諸個人だけでなく、全国の朝鮮学校関係者(生徒、卒業生、その保護者、現職及び元職の教職員等々)にも被害が及んでいたと見るならば、社会的法益が侵害されたのではないか。京都事件を単に侮辱事件としてだけではなく、ヘイト・スピーチ事件として考えなければならない。

個人的法益に属する事案であれば、現行法の名誉毀損罪や侮辱罪で対応できる。現行法では対応できない事案についてヘイト・スピーチ規制立法論が議論されているのは、個人的法益だけではなく、社会的法益(社会参加、民主主義…)を重視しているからだ。

根本が紹介する、駒村圭吾の「傷つく人がいるから」論や、宍戸常寿の「人の心が傷つく」論は、個人的法益と社会的法益の違いを理解していないための混乱であろう。

2に、「危険」と「結果」の関連である。個人的法益に属する罪では、殺人罪や窃盗罪など「結果犯」が中心である。社会的法益に属する罪では「危険犯」が多い。そこでは具体的危険の発生によって可罰性が生じるのか、それとも抽象的危険の発生ですでに可罰性が生じるのかという問題が生じる。

日本刑法学では、多くの論者が、多くの罪について、できるだけ具体的危険の発生を必要とするという解釈を展開してきたと言えよう。抽象的危険で足りるという解釈は最終的に形式犯に帰着する、つまり、法令違反さえあれば実際には危険が生じていなくても処罰すべきだという考え方になりかねない。行政法令には義務違反罪が多く定められている。これはこれで必要だが、刑法の基本的な考え方は、単に法令違反があればすべて犯罪という訳ではなく、実質的に法益侵害があったことを必要とし、そのための判断方法として具体的危険の発生を要件としてきた。ヘイト・スピーチを形式犯と見る学説はないだろう。ヘイト言説があればすべて犯罪ということではなく、ヘイト言説によって法益侵害が発生する危険性がどの程度あったかを問うことになる。

迫害型や差別助長・煽動型のヘイト・スピーチの処罰は社会的法益を保護するためと理解する場合、具体的危険の発生を必要とするのが一般的であろう。

・名誉毀損型や脅迫型:個人的法益:結果発生が必要

・迫害型や差別助長・煽動型:社会的法益:具体的危険発生が必要

このように整理するとすれば、私の記述が誤解を招いた理由が見えてくる。まずヘイト・スピーチの類型を分けることをせず、ヘイト・スピーチ一般について論じたきらいがある。そして刑法学における「危険犯」「結果犯」という概念とは別に、読者への理解の便宜のつもりで「結果発生」を日常用語で用いたきらいがある。

 金尚均はドイツの民衆扇動罪を研究して社会的法益の内実を明らかにした。私は主として国際人権法に従って議論してきた。国際自由権規約、人種差別撤廃条約、ラバト行動計画、一般的勧告35号、国連ヘイト・スピーチ戦略、欧州人権裁判所判決等を参考にしている。

ラバト行動計画は「結果の蓋然性」という表現をしている。

「切迫の度合いを含む、結果の蓋然性:煽動は定義上、未完成犯罪である。その発言が犯罪に該当するうえで、煽動発言によって唱道された行為が実際に行われる必要はない。しかしながら、ある程度の危害リスクは確認されなければならない。これが意味するのは、裁判所が、発言と実際の行為の間の因果関係が相当程度直接的に成立していると認識し、当該発言が標的とされた集団に対する実際の行為を引き起こすことに成功する高い確率があると判断しなければならないということである。」(ラバト行動計画)

根本の指摘を受けて、あらためて私見を明確に示す必要があり、そのためにはラバト行動計画を基礎に、さらに人種差別撤廃委員会や欧州人権裁判所の判断事例や、各国裁判所の判決を調査しようと思う。

3に、根本が私への批判として「直截にアメリカ法からの離脱を提唱する。」と繰り返している点に言及しておこう。

 確かに私は憲法学説の主流(ないし多数説と呼ばれてきた見解)を批判し、その多くがアメリカ憲法判例を参照し、論者によってはアメリカ憲法判例の枠組みをそのまま適用するよう主張していることを批判してきた。その意味では「直截にアメリカ法からの離脱を提唱する。」という表現は適切かもしれない。

 ただ、私は「アメリカ法からの離脱を提唱する」ことに関心があるわけではない。日本国憲法を正しく解釈することに関心があるだけだ。そもそもアメリカ憲法判例にさして興味がない。さらに言えば、諸外国の法律や学説にもそれほど関心がないし、比較法研究にも関心がない。私の関心は日本国憲法の下で悪質な人種・民族差別の煽動のようなヘイト・スピーチを刑事規制することであり、日本国憲法の体系的合理的解釈である。この点は『要綱』においても強調したが、次回以後に再論する。

これまでラバト行動計画について何度も言及してきた。その翻訳はオンライン上にアップしてある。私の『序説』及び『要綱』でも紹介・検討した。しかし、日本の論者にはあまり着目されていないので、これからもラバト行動計画や一般的勧告35号を普及する必要がある。

私はほとんど「ラバト行動計画」主義者と化しているように見えるかもしれないが、ラバト行動計画の作成に、残念ながら、直接関与していない。国連平和への権利宣言の作成には大いに関与したので、「私たちがつくった国連宣言」と言ってきたが、ラバト行動計画についてはそうは言えない。ラバト会議にもその準備会議(ウィーンやバンコク)にも参加していない。

ジュネーヴでの検討会議(専門家ワークショップ)に参加したが、当時、「ラバト行動計画」のような文書をまとめる会議だとは知らなかった。このため、お勉強するつもりで傍聴しただけで、一度も発言していない。世界の数十カ国のヘイト・スピーチ法が紹介されたが、日本法には関連規定がないため発言しようもないので、会場の隅でお勉強させてもらっただけだ。フランク・ラ・リュ(国連人権理事会の表現の自由特別報告者)アスマ・ジャハンギル(宗教の自由特別報告者)ドゥドゥ・ディエン(元・人種主義人種差別特別報告者)、パトリック・ソーンベリ(人種差別撤廃委員会委員、キール大学教授)らの報告はとても勉強になった。せめて一度でも発言しておけば、「ラバト行動計画の作成に寄与した」と言えたのに、残念(苦笑)。