このところ、「真実後(ポスト・トルース、post-truth)」という用語がさかんにつかわれるようになってきた。アメリカの評論家ラルフ・キーズ(Ralph Keyes)が2004年の著作で用い、2010年頃からアメリカ政治の世界で使われるようになったと言う。それが日本政治にも適用されている。
政治の世界では、真実を語ることは必要でなくなった。政治家に真実を求める文化がなくなっている。虚偽を語っても検証されず、批判もされない。たとえ虚偽を語っても、あれこれとごまかしの弁明が通用する。
アメリカでは、オバマ政権に対しても用いられたが、何と言っても2016年の大統領選挙において、「真実後」現象が爆発した。2017年に入っても、トランプ大統領は平然と嘘を繰り返す。「オルタナティヴ・ファクト」という珍妙な言葉も流行した。
日本でもこの言葉を用いる政治評論家やジャーナリストが増えてきた。そのすべてを見たわけはなく、一部しか確認していないが、まともな政治学者は用いていないのではないか。その場しのぎの「おみくじ評論家」が用いている印象だ。
2点だけ指摘しておこう。
第1に、定義が不明確である。真実の定義自体、もともと流動的である。政治の世界では、それぞれの「真実」を求めて争う歴史がある。
第2に、日本政治が「真実後」になったという主張は、同時に、日本政治は「真実」だったという主張を前提としてしまうことになる。
だが、日本政治がいったいいつ「真実」だったことがあるだろうか。明治維新以来の近現代日本政治は一貫して「真実前」だったのではないか。あるいは、「反真実」、端的に言って「虚偽と隠蔽」だったのではないか。
そのことも踏まえたうえで、「真実後」という表現をするのでなければ、歴史修正主義に加担することになるだけだろう。
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以下は昨年11月にソウルで開催されたシンポジウムでの私の報告の一節。
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罅割れた美しい国――移行期の正義から見た植民地主義(3)
<しかし、本報告が縷々述べてきたように、東アジアにおける日本における/日本による戦争と植民地支配の歴史、及び今日に至る未清算の現実に向き合うならば、わたしたちが置かれている状況は「真実前の政治(Pre-truth politics)」ではないだろうか。
「真実前」と見るか、「真実後」と見るかは言葉の綾に過ぎないという理解もありうるかもしれないが、「真実後」であるならば、少なくとも一度、私たちは真実の世界に身を置いたことになる。近現代日本の歴史を虚偽と隠蔽の歴史と一面的に決めつけることは適切ではないかもしれないが、移行期の正義と植民地支配犯罪論を踏まえて検討するならば、私たちは一貫して「真実なき政治」の世界に身を浸してきたと見るべきではないだろうか。「戦争では真実が最初の犠牲者となる」という警句があるが、150年に及ぶ日本の戦争と植民地支配の歴史(未清算の歴史)を通じて、真実はおぼろげにでも姿を現したことがあっただろうか。>