菊池正史『安倍晋三「保守」の正体――岸信介のDNAとは何か』(文春新書)
空港の小さな書店で本を探したところ、池上、佐藤、養老、橋爪、大澤、ビートたけしが積んであった。余りのくだらなさにめまいがしそうに。もう少し大きな書店で、数冊まとめ買い。そのうちの1冊。
著者は日テレ政治部デスク。「安倍一強」の現実が、しかし、「熱狂なき勝利」にすぎず、「国民を覆う閉塞感」を否定できない現状で、安倍改憲路線はどこへ行くのか、国民をどこに連れて行こうとしているのかを問う。
そのために安倍の著作や発言を詳細に読み解くのも一つの方法だが、本書は、逆に歴史をさかのぼり、戦後保守政権史を追跡する。著者は、安倍の祖父・岸が開戦の責任者のひとりであったにもかかわらず、戦後、ただ一人政権の座に就いたことに焦点を当てる。あれだけ国土を破壊し、人命を奪いながら、反省もないままに政界に復帰する「究極の再チャレンジ」。その岸の路線を「岸的保守」と呼びつつ、吉田茂、池田隼人から田中角栄につながる「戦後保守」の流れと対比する。岸的保守は戦前への回帰、エリート主義であり、吉田的保守は大衆性に特徴があるという。両者の反目と交錯の流れを中曽根、大平、福田、小泉、安倍と追いかけて、安倍の保守とは何かを浮き上がらせる。
ただ、著者は、安倍が本当に岸の保守を継承しているのかと問い、半ばは肯定しつつも、半ばは否定する。時代の変化もあるが、それ以上に日米関係の在り方が違う。反米ながら日米安保に進まざるをえなかった岸と、なりふり構わぬ従米の安倍とはおよそ歴史観も価値観も異なる結果になるからだ。安倍の「戦後レジームからの脱却」は、アメリカの許す範囲という制約が最初からついている。
「安倍は、アメリカがつくった『戦後体制』からだけではなく、『大衆化された政治』という『戦後保守』の本質からも抜け出せていない」という。そこから著者は、すべて我々、大衆にかかっているとして、大衆の問題意識のありようを問う。
なかなか勉強になるが、安倍政権を「保守」と位置付けること自体に疑問があるし、そもそも岸を保守と見ることも危うい。革新官僚から昭和維新、そして「満州国」へと歩んだ岸がいったいいつ保守だったのだろうか。著者に限ったことではないが、戦後日本政治史では、保守と革新という言葉が奇妙な使われ方をしてきたことに問題がある。