Tuesday, February 21, 2017

梁英聖『日本型ヘイトスピーチとは何か』(3)

梁英聖『日本型ヘイトスピーチとは何か――社会を破壊するレイシズムの登場』 (影書房、2016年)
梁は、「第5章 なぜヘイトスピーチは頻発しつづけるのか?――三つの原因」で、これまでの叙述をまとめる。
第1の原因は「反レイシズム規範の欠如」である。「なぜ従来の反差別運動の力が、反レイシズム規範を成立させることができなかったのか」と問い、「国内的要因」として、「植民地支配時代からのレイシズム法制を入管法に引きついだ一九五二年体制」の確立と、「戦後日本に欧米とは異なる特殊な企業社会が成立したこと」をあげる。「企業の競争原理が市民社会全体を一元的におおっている」日本の企業社会への注目である。民主主義の脆弱さと左派政権の不在、産業民主主義の不成立、差別を内包する日本型雇用システムが社会的規範となったことが確認され、その中での反差別運動には限界があったとされる。
第2の原因は「上からの差別煽動」である。戦後におけるレイシズム暴力事案を見ても、「レイシズムが継続的な曲活動の組織化へと結びつく新しい社会的回路」ができたという。「パチンコ疑惑」「核開発疑惑」「テポドン事件」「拉致問題」など、日本政府や政治家によるレイシズムが噴出した。高校無償化問題もその典型例である。
第3の原因は「歴史否定」である。ドイツと異なり、東アジア冷戦構造の中で、日本は歴史否定の規制を行う必要がなく、むしろ歴史修正主義が権力の地位についてきた。1990年代以降、歴史修正主義が堂々と語られてきた。その延長上に在特会があるという。
以上をまとめて、梁は「グローバル化と新自由主義が招いた東アジア冷戦構造と企業社会日本の再編』と表現する。
「本章で分析した三つの原因を人びとが是正・抑制できなければ、レイシズム煽動が流血の事態にいたることを止めることができない。それはマイノリティを破壊するだけでなく、マジョリティの人格を腐敗させるにとどまらず、民主主義と社会を最終的に圧殺せずにはいないはずだ。」
現代日本のレイシズムとヘイト・スピーチの要因の分析として優れている。
梁は、「第6章 ヘイトスピーチ、レイシズムをなくすために必要なこと」において、レイシズムと闘い、ヘイト・スピーチを克服するための戦略を練る。レイシズムの原因を主に三つに整理したので、当然のことながら、対策もその三つに即して語られる。
第1に「反レイシズム規範の構築――反レイシズム1.0を日本でもつくること」である。人種差別撤廃条約の理念に基づいた反レイシズム法をつくらせることである。そのために、被害実態調査、被害相談、反レイシズム教育が重要である。
第2に「反歴史否定規範の形成」である。戦後補償問題に見られるように、何よりも、真相究明、事実の認定が必要である。
第3に「「上からの差別煽動」にどう対抗するか?」である。「まずは一般的な民主主義を叩かいとること」とされる。
「おわりに――反レイシズムを超えて」で、梁は、次のように述べる。
「日本のヘイトスピーチは、従来の在日コリアンへのレイシズムとの連続性をもちつつも、それとは一線を画した異質性と桁ちがいの危険性をもつレイシズム現象だ。そのためこれを放置すると、マイノリティを徹底的に破壊するだけにとどまらず、加害者個人のみならずマジョリティ側の人格・モラルをも腐敗させ、ついに民主主義と社会を壊す。」
「だが、本当の課題は、そもそもレイシズムが起きる社会的条件を別のものにおきかえることだ。本来は、レイシズムが必然的に暴力に結びついてしまう近代社会そのものをどうするかという問題に向きあわねばならない。反レイシズムは『反レイシズム』だけでは不十分なのである。」
かくして、私たちは20年前、1990年代の課題に立ち返ることになる。人種差別撤廃条約の批准と履行を求める闘い。戦後補償を中心とする政府の責任追及と、真相解明と、歴史修正主義との闘い。相次ぐ政治家の差別発言、妄言を許さない闘い。
梁の分析と問題提起は重要である。レイシズムによる差別被害を受け続けてきた在日コリアンの一員であり、いまなおヘイト・スピーチの暴力被害を受けている梁が、自分が置かれた状況を冷静に研究・分析し、変革の課題に結び付けて調査し、運動し、発言している。その考察は歴史的かつ社会的であり、現場の体験と運動に発し、同時に文献資料も活用して、的確に認識し、展望を切り拓こうとしている。本書に学ぶべきことは大きい。
在日コリアンにこのような研究と運動に取り組まなければならないようにしてきた日本社会の一員として、私はまず自らを恥じ入り、そして思いを新たにしてレイシズム研究に取り組まなくてはならないと思う。
最後に若干の感想を付け加えておこう。
第1に、梁がたどり着いた地点、提起する解決のための闘いは、1990年代からずっと同様に意識されてきた課題である。その意味で新しいことではない。同じ問題意識を有しながら、解決のために取組が続けられた。人種差別撤廃条約の批准、その履行実践、その他の国際人権法の実践、難民、移住者をはじめとする人々の人権擁護・・・さまざまな課題が取り組まれた。ところが、事態は改善と言うよりも、かえって悪化したのではないか。この四半世紀の運動をどう総括するのか。改めて問われている。
第2に、現代日本のレイシズムの独自性、特殊性と普遍性の解明作業も不可欠である。私自身は21世紀植民地主義、グローバル・ファシズム、<文明と野蛮>を超えて、植民地支配犯罪論といったタームで論じてきたが、まだ不十分である。当面は「500年の植民地主義」と「150年の植民地主義」という区分の上で再検討しようと考えている。
第3に、梁の分析では、天皇制が焦点化されていない。天皇制とレイシズムを直接正面から問うことは、まさにヘイトのターゲットとされることを意味するので、日本人がきっちり取り組むべき課題であろう。また、梁は、「日本国憲法のレイシズム」について取り上げていない。日本国憲法は13条で個人の尊重、14条で法の下の平等を掲げているにもかかわらず、実際にはレイシズムを内在させた憲法である。このことを憲法学は軽視してきた。日本国憲法を貫くレイシズムを軽視するから、「憲法は表現の自由を保障している」という稚拙な理由で ヘイト・スピーチを擁護する憲法学者が続出するのだ。「日本国憲法のレイシズム」は私自身の次のテーマである。
第4に、梁が「レイシズムは民主主義を壊す」と述べているのは、このテーマに近接している。刑法学者の金尚均がヘイト・スピーチの保護法益として人間の尊厳を論じる際に社会参加や民主主義について語るのも同じことである。私の文章で言えば、前田朗「ヘイト・デモは民主主義に反する――国連人権理事会のパネル・ディスカッション」『無罪!』2016年7月号参照。レイシズムやヘイト・スピーチは民主主義と両立しない。にもかかわらず、日本の憲法学者は民主主義と表現の自由を論拠にヘイト・スピーチを擁護するという離れ業を続けている。
最後になるが、2016年12月に出版された梁の著作が、2015年4月に出版された私の『ヘイト・スピーチ法研究序説』を無視しているのは残念である。