梁英聖『日本型ヘイトスピーチとは何か――社会を破壊するレイシズムの登場』(影書房、2016年)
http://kageshobo.com/main/books/nihongatahatespeech.html
12月に出た最新のヘイト・スピーチ関連本である。著者は、1982年生まれの在日コリアン3世で、一橋大学大学院言語社会研究科修士課程。2015年に、NGO「反対レイシズム情報センター(ARIC)」を立ち上げて活動している。
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ヘイト・スピーチ関連本はすでに、現状を把握するためのジャーナリストによる報告、法規制に関連する研究者・弁護士の法律論、アメリカや欧州諸国におけるヘイトの動向とそれへの対策を論じた著書など多数ある。本書は、そうした情報も参考にしつつ、日本におけるヘイト・スピーチの歴史と現状、特徴とそれへの対策を正面から論じている。
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「序章 戦後日本が初めて経験するレイシズムの危険性を前に」では、「最悪のレイシズム現象としてのヘイトスピーチ」について、その危険性を可視化するために、「反レイシズムというモノサシ」、「差別煽動」をキーワードとし、反レイシズムの欠如が在日コリアンを沈黙に追い込んできたことを指摘し、「沈黙効果」の多元性を説く。
「在日コリアンは、本来もっているはずの、レイシズム被害を語る力も、人間性を失わないために自分のアイデンティティを活用する力も、それらを社会を変えるために発揮する力をも、右のような社会的条件のために削がれつづけている。これが、ヘイトスピーチの『沈黙効果』以前に、はるかに徹底的に在日コリアンの若者を黙らせてきたのだ。」
こうした問題意識も含めて、梁は、本書の課題をまとめている。
「本書は、日本のヘイトスピーチの危険性、社会的原因、有効な対策について考えていく。その際、欧米の経験を抽象化した一般論にとどまらず、日本という個別具体的な歴史的・社会的文脈の中に位置づけて、その特殊性に着目する。そして、反レイシズムというモノサシを身につけることを通じて、日本のレイシズム問題を『見える』ようにする。」
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「第1章 いま何が起きているのか――日本のヘイトスピーチの現状と特徴」では、日本の現状を取り上げる。梁は、「二〇一三年六月 東京・大久保にて」及び「ひどすぎてありえない差別の登場」で、ヘイトデモの実態を描く。「さまざまなタイプの物理的暴力――街宣型・襲撃型・偶発的暴力」で、ヘイトの物理的暴力性を明確にする。「あらゆるマイノリティと民主主義の破壊」で、被害者の広がりを指摘する。さらに「社会「運動」としてのヘイトスピーチ」で、継続的に組織されたレイシズムの特徴を整理する。「ヘイトスピーチのどこがどうひどいのか――「見える」ひどさと「見えない」ひどさ」で、反人間性と暴力は見えるひどさだが、レイシズムと歴史否定は見えないひどさであると言う。その上で、「反レイシズムというモノサシ(社会的規範)の必要性」で、ヘイトの総体を把握し、これに対処するために、反レイシズムの視座が不可欠であることを論じる。
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「第2章 レイシズムとは何か、差別煽動とは何か――差別を「見える化」するために」において、梁は、概念定義を確認する。まず、「レイシズムとは何か――レイシズムの「見える化」」で、人種差別撤廃条約等の定義をもとに、ヘイト・スピーチとレイシズムの定義を掲げる。日本で利用される国籍差別に関連して「国籍とレイシズム」にも目を配る。「差別煽動とは何か――レイシズムの発展を見えるようにする」で、レイシズムをレベルアップするメカニズムを論じる。「増殖する差別」の重要な要因として煽動が問題となる。ここでも人種差別撤廃条約第4条などをもとに差別煽動を定義している。その上で、亮は「レイシズム暴力」と国家の関係を問い、最大の責任主体としての国家、「上からの差別煽動」を主題とする。さらに、「マイノリティとしての在日コリアン――レイシズムと差別煽動の不可視化がもたらすもの」で、本書で中心的に論じる在日コリアンについて確認している。
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「第3章 実際に起きた在日コリアンへのレイシズム暴力事例」で、梁は、近現代日本市におけるヘイトの歴史を素描する。
1 関東大震災時の朝鮮人虐殺(一九二三年九月~)
2 GHQ占領期の朝鮮人弾圧事件(一九四五年八月~一九五二年)
3 朝高生襲撃事件(一九六〇年代~七〇年代)
4 チマチョゴリ事件(一九八〇年代~二〇〇〇年代前半)
5 ヘイトスピーチ――在特会型レイシズム暴力(二〇〇七年~現在)
以上の順で、ヘイト・クライム/ヘイト・スピーチが在日コリアンに対していかに行われてきたかをたどり直し、その特徴を明らかにする。
ヘイト・スピーチの被害がとらえがたい理由を検討した結果、梁は次のように述べる。
「戦後七〇たったいまもなお、法律レベルで公認された権利がほぼないまま、レイシズム状況に自分たちがおかれていること。このことを痛烈に自覚しつづけざるをえないからこそ、在日コリアンの『ヘイトスピーチ被害』は、それだけ深刻なものになるのだ。」
ヘイトの被害についての正面からの議論はしていないが、差別が日常化、制度化、組織化されている状況下におけるヘイトの被害の深刻さを示している。
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以上の3章を見るだけでも本書が極めて重要で有意義な著書であることを確認することができる。いくつもの特記事項があるが、少しだけ確認しておこう。
第1に、反レイシズム規範の強調は的確であり、重要である。世界人権宣言では不十分であり、日本国憲法には欠落している反レイシズムを、いかにして日本社会に提起するのか。人種差別撤廃条約、同委員会での議論、ダーバン反差別世界会議の宣言・行動計画、国連・先住民族会議の議論、ラバト行動計画など、国際社会の努力はまさに反レイシズムの規範作りであった。それが日本に十分に影響を与えることができなかった。人種差別撤廃委員会の度重なる勧告を日本政府が無視してきたからである。
第2に、レイシズムとヘイトの暴力性の指摘は何度でも、何十度でも繰り返さなければならないキモである。日本社会はあくまでもヘイトの言論性を口実にして、表現の自由だなどと言うが、実態は暴力である。暴力の実態を隠蔽するためのごまかしの議論として「行為と言論の区別」論が猛威を発揮してきた。
第3に、日本近現代史を通じてヘイトが続いてきたことの歴史的確認である。関東大震災から最近のヘイト・スピーチまで、在日朝鮮人の歴史に詳しい人間ならだれでも知っていることであるが、日本社会の研究者の中にはこの程度の情報すら踏まえていない例が少なくない。本書第3章の記述は、さらに詳細に「近現代日本におけるヘイトの現象形態とその本質」としてまとめる必要があるだろう。