清水多吉『語り継ぐ戦後思想史』(彩流社、2019年)
名著『1930年代の光と影』の清水だ。
『ベンヤミンの憂鬱』の清水だ。
ハーバーマスの『社会科学の論理によせて』『史的唯物論の再構成』『討議倫理』の翻訳の清水だ。
著書を通じて数多くのことを学ばせてもらった碩学の、「体験と対話から」語り継ぐ時代の証言である。
僅か215頁の著書に、数々のエピソードが詰め込まれている。目次を見るだけでため息が出そうになる。
登場するのは、福本和夫、吉本隆明、中野重治、日本浪漫派、『新日本文学』と『近代文学』の作家たち、わだつみ世代の村上一郎、三島由紀夫、埴谷雄高、全共闘世代、芳賀登、廣松渉、藤原保信等々。
西欧知識人では、ブレヒト、ブロッホ、マルクーゼ、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマス、ルーマン、ホネット、ドゥルーズ、リオタール等々。
こうした知識人の著作や対話を通じて、戦後思想史を描き出している。そこでは、ソ連型マルクス主義崩壊後の現代史における主体形成、社会編成、そして権力をめぐる論戦が様々に形を変えて解き明かされていく。
『1930年代の光と影』の著者のメッセージは、次のようにまとめられる。
<昭和が終わり、平成が代替わりしようとしている現在、
安穏に見える無関心の人たちに支えられた民主主義政治が成り立っている。
かつて世界を二分した熱い戦争の悲劇から、
冷たい戦争の時代を経る過程で、さまざまな思想の葛藤があり、
それに伴う行動があった。
今、世界の政治は
いわゆる「ポピュリズム」(大衆迎合主義)の傾向を強め、
ナショナリズムと分断に誘うリーダーが幅を利かせている。
社会主義体制は内的に自壊したが、
ファシズムは軍事的に敗れたのであり自壊したのではない。
種子がある限り蘇る可能性があるのだ。
本書は、新時代への危惧と次世代への問いかけを含む好著である。>
行間に込められた思いを十分に受け止めるだけの能力がないが、それでも非常に勉強になる著作である。
*
気になるところもないではない。
ケアレスミスの誤植があるのはともかくとして、その一つが、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』を「昭和六一年に発表された」としていることだ(60頁)。これが躓きの始まりだ。「一九六一年」に訂正すれば済む話ではあるが、なぜ元号なのか。清水は西暦と元号を併用し、あるときは元号で、あるときは西暦で表記している。そして本文最後に次のように述べる。
「この『平成』という時期は、あの『大正』期十五年の倍の長さを持ったにも拘わらず、『大正』期の誰しもが感ずる『大正期らしい生きられた思想』に匹敵するものを、生み出さなかったのではあるまいか。」(212頁)
元号を用いていることを直ちにとやかく言う必要はないだろう。ハーバーマスの話の所では西暦を用いて、福本和夫の話の所では元号を用いるのは合理的と言えるかもしれない。
だが、著者は時代区分も元号に従っている。大正や昭和や平成の思想を語る姿勢である。そのことも必ずしも批判されるべきことではないだろう。
だが、やはり気になる。大いに気になる。なぜか。
最大の理由は、本書には天皇も天皇制も登場しないことだ。
コミンテルンの31年テーゼと32年テーゼの比較をするとき、清水は、社会主義革命か民主主義革命かの論点だけに絞り込む。天皇制については語らない。
日本浪漫派や三島由紀夫についてふれることはあっても、天皇制には及ばない。
1989年の激変に世界史の転換を見て、思想史のエポックを画するという位置づけをするが、焦点化されるのは壁が崩壊したことだけであり、朕が崩御したことではない。
清水が天皇及び天皇制に関心のないはずがない。それどころか、語るべき多くを抱え込んでいるはずだ。にもかかわらず、本書で清水は天皇及び天皇制への言及を徹底的に排除した。慎重かつ周到に排除した。
なぜなのか。
「社会主義体制は内的に自壊したが、ファシズムは軍事的に敗れたのであり自壊したのではない。」という言葉にすでに込められているというのだろうか。
それとも、清水は最後にもう一冊、『語り継がれなかった戦後思想史』を世に問う腹案を持っているのだろうか。大いに気になる。
*
目次
はじめに──忘れられて行く価値 忘れられない価値
第一章 「転向」の諸相
第一節 様々な獄中体験
第二節 ゴーリキーの不可解な死
第三節 いわゆる「転向」「コロビ」
第二章 戦争直後の世代
第一節 『新日本文学』vs.『近代文学』
第二節 「わだつみ世代」の反応
第三節 更に「遅れてきた世代」の受けとめ方
第三章 「自同律の不快さ」
第一節 つまり「私が私であることのこの不快さ」
第二節 「異化作用」
第三節 「ハムレット」劇を例として
第四節 エルンスト・ブロッホ訪問
第五節 フランクフルト大学を尋ねて
第四章 叛乱の季節
第一節 西欧の「学生叛乱」
第二節 日本の東大・日大闘争
第三節 西欧の叛乱学生の資質
第四節 ルガーノ湖畔にホルクハイマー訪問
第五節 『啓蒙の弁証法』の読み方
第六節 テロ事件に直接遭遇
第五章 ニューヨークからミュンヘンへ
第一節 「寺子屋教室」の思い出
第二節 ニューヨーク・ホウフストラ大学での講義体験
第三節 ピストル武装の学生に守られてのニューヨーク見物
第四節 ワーグナーを求めてバイロイトへ
第五節 シュタルンベルクにハーバーマスを尋ねて
第六章 「権力」への問い
第一節 福本和夫、再び
第二節 ルーマンvs. ハーバーマス
第三節 ホネットの『権力の批判』
第四節 フーコーの微視的「権力論」
第五節 フランス哲学への問い
第七章 社会主義体制の自滅
第一節 ソ連での不快な思い出
第二節 東ベルリンでの恐怖の思い出
第三節 東欧・ソ連社会主義体制の自滅
第八章 ベルギーのルーヴァン大学から再びベルリンへ
第一節 リオタールあるいはドゥルーズ批判
第二節 ベルギー、ルーヴァン大学での意見発表
第三節 再び「壁」崩壊後のベルリンへ
第四節 かけがえのない私の友人 廣松渉氏、藤原保信氏の死
第五節 ドゥルーズ、レヴィナス、ルーマンの死。そしてわが友 矢代梓氏の死。
終 章 テロとともに始まった二一世紀